蒼い雨に濡れながら
諫早高校の図書室の入り口にも、同じ様な円形の白いプラスチック製のテーブルと椅子が置いてある。其処に健一と一人の女子生徒が座っている。テーブルの上には二枚のA4の紙が広げられていて、二人はその紙を覗き込んでいる。紙には二行程の縦書きの文字が三列並んでいた。二人はその文字を指でなぞりながら、ひそひそと言葉を交わしては、そっと笑っている。通り掛かった生徒が紙を覗き込んだ。女子生徒が「ダメよ」と言って慌てて両手で紙を覆った。女子生徒は美樹である。幼馴染の二人は、同じ西諫早中学に進み、そして高校も同じ諫早高校に進んだ。
放課後の校内はまだ、ざわめきに包まれていた。部活に向かう生徒達。帰路を急ぐ生徒達。図書館で勉強する生徒達。一日の授業を終えた生徒達は、其々に活動の拠点を学校の内外に移し始めていた。生徒達の話し声と笑い声が、大きな開放感となって校内を包んでいた。
「よお、お二人さん」
男子生徒が健一の肩をポンと軽く叩いて通り過ぎた。健一も軽く挨拶を返す。そしてまた直ぐにテーブルの上の紙に視線を戻した。
「羨ましいよな、あいつら」
硝子のドアを閉めて一人の生徒が振り返りながら言った。硝子の中に健一と美樹が浮かんでいる。一緒に入った生徒も振り返って二人を見た。そして、大きく頷(うなず)いた。図書館は学校に残って勉強する生徒達で混雑していた。二人は空いている席を捜している。
「でも許せる気がするね」一人の生徒が言った。
「何が?」
「何となくさ。あいつら何となく許せる気がする」彼はもう一度そう言った。そして何得するように頷いた。「あの二人を見ていると、どう言ったらいいのか、当たり前じゃん。一緒に居るのが当たり前で、皆もあいつら一緒なんだって、当たり前のように思っている。何かしらあの二人を見ていると当たり前なんだよね、ああしているのがさ」
「うん。確かにそれは言える。しかも、さらっとしているのね。さらっと」
「でもさ、考えてみればそんなのもあっていいんじゃないかな。あの二人見ているとほんと、そう思う」
「とりあえず奥に行こうぜ。あそこしか空いてない」一人の生徒が後方の空席を指差して言った。もう一人の生徒はまだ二人を見ていた。
「でもさ。考えてみれば、美樹ちゃんも健一の何処がいいんだろう?俺の方がずっといい男なのに。そう思わんね?」
「いらん世話さ。あんたには関係ございません。とは言えね、ただ一つだけ確かに言えることはあるよ」そう言って彼はにやりと笑った。
「何ね?」怪訝そうに相手の生徒が言った。
「あんたはそう言うけど、あんたが言ったことは客観的に見た場合には、そうでもないという事実さ」
ピンとこなかったのか、一瞬の間があった。そして、「アホか」そう言ってからかわれた生徒が相棒に肘鉄を食らわす真似をした。
二人は笑いながら一番奥の席に行った。二人はドサッと遠慮のない音を立ててガバン置くと、取り出した参考書を広げた。そんな二人の後ろの壁には、「館内では静粛に」という紙が貼ってある。
「ハアイ!」順子が右手を軽く上げながらやって来た。
「やぁあ」健一も軽く右手を上げた。
順子はその手に軽くハイタッチして、美樹の横に座った。そして黒いカバンの中から一枚の紙を取り出しながら「和也君はまだ?」と尋ねた。
「まだみたい」美樹がその紙を覗き込みながら言った。
「こんなんでいいかな?」
順子はÅ4の紙を健一にも見えるように前に押しやった。
健一達が通っている諫早高校では生徒達が中心となって、「高城(たかしろ)」という小冊子を刊行しており、その中に「諫語林(かんごりん)」というページがある。「あ」から始まる諌高での年間流行語が特集されている。順子が出した紙もその原稿だ。
出来上がっているものの一部を紹介すると、
『「か」の欄では
「かわんど「変人」 変わった人。明らかにおかしい人。ありえない人。ヘンジンとはよまないので注意が必要である」
「し」の欄では
「ジェミノート「じぇみノート」 生物のY先生の「ゼミノート」の発音」
「た」の欄では
「だっし「ダッシ」 AやBの「´」のことを「ダッシ!」と発音すること」
「へ」の欄では
「へんさち「偏差値」 あなたの人生を決める最大の値」』 
(諫早高校発刊の「高城」より引用)
などなど秀逸な名言が紹介されている。
美樹も順子も健一もこの作成に携わっている。だが、正直に言って、そう簡単に名言など転がっているものではない。
順子が差し出した紙には「あ」の行が書かれている。
「あさいち「朝市」 日曜の朝にゲートボール場的レジャー広場に変身する芝生公園の別名。干物の匂い付き。但し補講の諫高生は嫌そうな顔をして通る場所。でも雨が降ったら近くにいるお年寄りを傘に入れてあげる場所のこと」
「少し長いかな?」順子が言った。
「長くもあるけど、それより一体全体何よ、これ?」美樹が言った。
「先週見たの。朝、急に雨が降ったでしょう。市の体育館の軒下に向かって、朝市に来てたお爺ちゃんやお婆ちゃん達の大移動が始まったのよ。すると側を通っていた諫高生達が傘を差し掛けたの。時間ギリギリだったけど軒下まで送って、其処から踵(きびす)を返すなりダッシュしてた。見てて悪くはなかったよ」
「ダッシじゃないの?」美樹がそう言って笑った。「順子が言ったのを「あさいちったる」にしようか?そして、「人に優しくしてあげること」とかしてさ。「ごしょる」が流行ったでしょ。御書院の池に何か落としたら「アッ、ごしょった」って一時期言ってたじゃん」
「あのう、趣旨が違うと思います」健一が言った。「今から流行語を作るんじゃなくて、今年流行ったのを集める作業なんだから」
そうこうしているうちに和也が入って来た。
「やぁ」やっぱり彼も右手を軽く上げて、順子にハイタッチした。
「「や」の欄に「やぁ」を入れようか?」と健一が言った。
美樹が何か言いたそうな顔をして健一を見た。
「「やぁ」 諫高生が親しい人に会った時の一般的な反応。上げる手は右手に限る。ハイタッチすること
どう?」
「やるじゃん」和也がそう言いながら順子の横に座った。
「そして、相手が好きな人なら、その後横に座って少し赤くなること」と言った。
「オオッ、言うね」健一が言った。
「今のは、もしかしたら、いや、もしかしなくても和也の恋の告白だぜ」
「だぜ、じゃなくて、だじぇでしょ」
笑いながら原稿を検討している四人の側をひっきりなしに生徒達が出たり入ったりしている。四人と親しい生徒はほとんどがハイタッチをして通り過ぎた。
そんな三人を見ながら、健一は美樹のことを思っていた。幼稚園からずっと一緒だった。というよりその頃から記憶がはっきりしているだけで、それ以前もずっと一緒だった。家が隣り同士で、まるで家族のように何時も一緒に居た。健一の側には美樹が居るのが当然で、まるで空気のようにお互いを意識することなどなかった。だが、最近美樹が側にいると何かそわそわする。居ないなら居ないで何となく気に掛かる。互いの存在に対する意識などなかったはずなのに、最近そんな感情に気が付くことがある。これが恋なのかな?そう思うこともある。だがそう明確に意識するには余りにその存在は当然過ぎた。恋という言葉を意識する以上に美樹の存在は健一の中で当然だったのだ。
健一はふっと肩を竦めた。
そんな健一を美樹がちらりと見やった。

健一は美樹を見た。美樹も健一を見た。健ちゃん、あなたは何を見ていたの?健一には美樹がそう言ったような気がした。今も同じだ。あの頃と何も変わっていない。連綿と続いている私たちの青春だ。あなたはそれが過ぎ去ったものであるかのような目をしている。そう言われたような気がした。
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