蒼い雨に濡れながら
第四章 逡巡

(一)

「健ちゃん、今年こそ京都を一緒に歩こうね」諫早駅のホームで列車を待ちながら、美樹が言った。
美樹がそう言った時、健一は、雨に濡れている駅の構内や周囲の風景を、ぼんやりと眺めていた。今日の諫早市は朝から絹のような雨が降り続いている。健一の目の前には、雨に濡れた線路が鉛色に光りながら延びている。その表情のない冷たさが健一の心に言い知れぬ無力感を運び込んでいた。線路にカルビーの袋がへばり付いている。その袋は線路と枕木が続く色彩のない空間に滑稽なほどの生々しさを与えていた。視線を上げると西友ストアの白い壁が見える。その壁もそぼ降る雨に濡れて生気を失くしている。
「私、信じているから」美樹が呟くように言った。
健一は何も答えずに、向かいのホームに視線を移した。赤い傘を杖代わりにした一人の女性が自販機に寄り添うように立って、じっと一点を見つめている。その前に屋根を伝う雨が、ぽつりぽつりと落ちている。ベンチには二人の男性が座っている。二人とも俯き加減に身体を縮めて雨を見つめたまま、じっと動かなかった。
京都を、一緒に、今年こそ、美樹の言葉がゆっくりと健一を駆け巡った。京都を、今年こそ。信じて、いるから。私、信じて、いる、から。
そう、そうなんだ。そう思いながら毎年頑張ってきたーーーつもりだ。でも、もう三年という年月が流れてしまった。あっと、言う間に。
「私待っているんだからね」美樹が、もう一度そう言って、健一の手を両手でしっかりと包んだ。そして、その手の中にポケットから取り出した御館山(みたちやま)神社の学業成就のお守りを握らせた。そして、もう一度しっかりと健一の手を包んだ。柔らかく暖かい手だ。頑張ってね。建ちゃん、頑張ってね。しっかりと握った手の平に込められた美樹の無言の想いが、健一の胸を刺した。
健一横に佳子が立っている。佳子は、「嫌な雨だね」とぽつんと言った。そして、「出鼻を挫(くじ)かれるような気がする」と付け加えた。
「そんなことないわ」すかさず美樹が否定した。そして、「雨なんか関係ないですよ。ねぇ、健ちゃん」精一杯の笑顔で健一に言った。
だが、健一は前を見つめたまま返事をしない。健一は、自分に圧し掛かっている受験の重圧に押し潰されそうになりながら、それを必死に押し返そうとしていた。その重圧は浪人を重ねるにつれて、毎年毎年重くなっていた。その重さが健一の口を閉ざしている。健一は何も言えずに、じっと雨を見つめているしかなかった。
誰のせいでもない。誰が悪いんじゃない。皆自分のせいなんだ。そう思う。でも、どうしても京大に行きたい。そうも思う。早く大学に入って欲しい。どこでもいいから入って欲しい。そんな願いも分かっている。頑張って欲しい。その祈りも分かっている。みんな分かっている。それだけに、今の健一には、その全てが重かった。
だがそれは、美樹も佳子も同じことだ。健一に掛かる重圧は、何も健一だけのものではない。同じ様に周囲の人間にも圧し掛かっているのである。だが、それじゃ駄目なんだ。駄目なんだよ。元気に送り出さなきゃ。そう思って美樹は笑顔を作っている。芝居でも何でもいいから健一を明るく元気一杯に見送らなきゃ。その笑顔が吉報を連れてくる。きっと連れてくる。美樹はそう信じたかったのだ。
「関係ないって。雨なんて」美樹がもう一度言った。そして、赤いコートの襟を立てた。
「気を付けて行くのよ」佳子が健一を見ながら言った。
「うん。分かっている。初めて行く所じゃないから。心配ない」
「油断しないのよ」佳子が言った。「そうそう、使い捨てカイロは持ってきたね?寒くなってきたから。向こうは雪じゃあなかろうかね?」
「持ってるから大丈夫」健一が無愛想に答えた。
「風邪引かないようにね」美樹が言った。「合格するのは分かっているんだから、それだけが心配」
美樹がそう言ってウィンクした時、初めて健一が、にやりと笑った。そして、元気を奮い立たせるように、美樹に向かって小さく頷いた。
十時二十八分、定刻に白いかもめ号がホームに滑り込んで来た。沈滞した駅にベルの音が鳴り響き、三人が此処に来て初めて動きらしい動きが起こった。
「行って来ます」そう言って健一は列車に乗り込んだ。そして、二人を振り返ると、小さく右手を上げて室内に消えた。美樹と佳子は、窓越しに通路を歩いて行く健一の姿をじっと追っていた。健一は座席に腰を下ろすともう一度二人を見た。そして、小さく手を振った。発車のベルが鳴り、白いかもめ号は滑るように動き始めた。そして、あっと言う間に二人の視界から消えた。雨に濡れた二本の線路がやけに空虚であった。
三年間という浪人生活はやはり重い。視界から消えた特急列車の残滓を追いながら、佳子は思った。今年は立命館大学と京都大学の組み合わせで受験をすることにしている。現役の時と同じ組み合わせである。京大が駄目なら立命館に行く。健一もそう約束したが、佳子はそれが健一の本心ではないことを知っていた。現役の時は立命館大には合格できた。だが、どうしても京大に行きたいという健一の思いに負けて、その合格を反故にした。そして、浪人という選択を許した。だが、結果としてその選択は失敗した。そして、ずるずるとここまできてしまった。仮に今年、立命館大に合格できても、三年という時間の浪費を経て、健一が納得してそこに行くとはとても思えなかったのだ。だが、もう健一の希望を聞く余裕はなかった。親として、これ以上浪人させることは出来ないのだ。
佳子は視界から消えた特急列車に手を合わせた。通りますように。健一が合格出来ますように。佳子はそう祈らざるを得なかった。
そんな佳子の姿を美樹がじっと見ている。佳子の姿を見ている内に、美樹も何時の間にか同じ様に心の中で手を合わせていた。

健一はぼんやりと窓外を流れる景色を見ていた。駅を出て暫く走ると、目の前に田んぼが現われた。雨に濡れた畦道を、黒いカッパを着た男が歩いている。彼はカッパを着た上に黒い傘を差して、枯れ草の道を歩いている。田んぼに囲まれるように数件の民家が立っている。民家に沿うように流れている小川には鶯色に濁った水が流れ、覆い被さるように雑木が茂っている。木々達は、纏(まと)いつく雨の重さに耐え兼ねるようにじっと頭を垂れていた。
窓外の景色を濡らしている雨は、そうでなくとも憂鬱な気分でいる健一に、じっとりとへばり付くように纏いつく。受験に行くという高揚した気分は今の健一にはなかった。今年こそ合格してやるという闘志もない。今の健一にあるのは、虚しさだった。やり切れない哀しさだった。自分のせいじゃないか。誰のせいでもない。みんなお前のせいじゃないか。そんな声が聞こえる。あんたが自分で選んだ道だろう。そんな声が聞こえる。
田んぼを過ぎると、低い家並みが現われた。家々はまるで肩を窄(すぼ)めるように道路にへばり付き、その前を電信柱が飛ぶように流れている。電柱は溶けかけた粘土のような倦怠を借景にして、現れては消え、消えては直ぐまた現われた。あんたが自分で選んだんじゃないか。そんな声が聞こえる。また一本の電柱が飛び去った。それが「俺達はあんたの墓標だよ。そう見えないか?」引き攣(つ)った嗤(わら)いを引きずりながらそう叫んで、消えた。「俺達はお前が建てた青春と書かれた墓なんだよ」
電柱と家々の間に国道が走っている。その国道を一台の銀色のスカイラインが列車と伴走するように疾走している。
墓?言われてみれば、そうかもしれない。確かにあんたらは、この三年間の浪人生活と引き換えに俺が立てた墓標に似ている。味も素っ気もない灰色で、どれもこれも同じ面をしやがって。友達仲間親友信頼自信夢希望、あんたらには、そんな墓碑銘が書かれているじゃないか。嫉妬猜疑心哀悲憐憫諦念、そんな墓碑銘が書かれているじゃないか。
現役の時に私大の合格を反故(ほご)にした。浪人したが、一浪の時も二浪の時も志望校には合格出来なかった。そして今年、一度受験した私立をまた受験しようとしている。こんなことなら現役の時に行けばよかった。両親も美樹も達也も皆が勧めたように、立命館に行けばよかったんだ。俺は一体何をしようとしているのか?何を如何したいのか?一体何に拘(こだわ)っているのか。俺にとって受験とは一体何なのだろう。そして俺を取り巻く人達にとって、そんな俺の存在は何なのだろう。どんな大義名分があるにしろ、浪人なんて所詮人生の足踏みに過ぎない。どんな思いがあるにしろ、所詮、泥濘の中で足掻くような沈滞にしか過ぎないのだ。そうはっきりと認めろ。
灰色の電柱が健一の眼の前を飛び去っていく。青春と書かれた墓標が物凄い速さで健一の眼の前を飛び去って行く。ひねた薄ら嗤いを浮かべながら、限りない嘲笑に身を捩(よじ)りながら、決して届かぬ憧憬にのた打ち回りながら、現れては、消えている。
回り続ける走馬灯のように、同じことが繰り返され続ける俺の人生。限りない停滞。反吐が出そうな沈滞。それなのに、本心はまた同じことをやりたがっている。また同じ事を繰り返したがっている。立命館を受験する。今、まさにその受験に向かっている。でも、例え合格出来ても、やっぱり、俺は、京大に行きたい。ただ今年はそれを口に出来なかっただけだ。でも、本心はそうなのだ。
馬鹿じゃないのかい。健一は思わず小さく頭を振った。その目の前をまた一本の電柱が走り去った。その電柱が嗤った。細い眼を更に細めて、薄い真っ赤な口を大きく開けて、嗤った。「あんた、もう一度やる気かい?もう一度やるのかい?あんた正気かい?あんた、馬鹿じゃないのかい?」そう言って、げたげたと嗤った
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