蒼い雨に濡れながら

(三)

二月にしては穏やかな天気だ。部屋の中には、柔らかな日差しが差し込んでいて、まるで小春日和の陽だまりに居るような気がする。テーブルを挟んで、健一と佳子は昼御飯を食べていた。目の前の白い皿にはこんがりと焼けた鯵の干物が載っている。擦り大根が添えられていて、香ばしい匂いが食欲をそそる。
「後一週間になったね、発表まで。待ち遠しいね。兄ちゃん、合格したら、今年は行くよね?」佳子が健一に念を押すように言った。
佳子がこう言うのは、何度目だろう?健一はそう思いながら、大口を開けてご飯を頬張った。そして、「うん」と曖昧に答えた。ご飯を噛むことで、はっきりとした返事を誤魔化した。そして、朝御飯の残りの蜆(しじみ)の味噌汁を啜(すす)って次の言葉を消した。健一は貝を箸でつまんで口を窄(すぼ)めるようにして、小さな身を前歯で剥ぎ取っている。
佳子は両手で湯飲みを包み込むように持って、そんな健一を見ていた。
「就職にも差し支えるって言うからね。余り長く浪人すると。理工系では二浪したら就職口はないって聞いたよ。あんたはもうそれを越えているから」
「その話なら僕も聞いたことがある。でも実際はそうでもないらしい。就職に不利なのは確かだろうけど、公募だけでなく教授のコネとかいろんな手があるみたいだよ。大げさな言い方じゃないかな。逆に大学院に行ったほうが就職率は高いそうだよ、理科系では」
「理系はそうかもしれないけど、あんたは文系だからね」佳子はそこで一端言葉を切った。そして、お茶を啜った。「お母さんはよく分からないけど、文系では弁護士や教員などのように専門的な知識で食べていける職業は、そんなに多くはないんじゃないかね。それ以外の職に就くのなら、浪人をして年を取っている分、不利になるだけじゃなかろうかと思って」佳子は湯飲みを置くと、御飯を口に入れた。そして、ゆっくりと噛んだ。「やっぱり電報頼んどいた方がよかったね。兄ちゃんが大丈夫って言うからお母さん、敢えて何も言わなかったけど」
「大丈夫だって。インターネットの速報を見ればいいから」
「本当に大丈夫やろうね?間違いなかろうか?」
「電報の方が余程ミスる確率は高いんじゃないかな」
「帰って来たあんたの顔を見て、大丈夫だろうと思ってはいるんだけど」
健一は佳子の言葉に何も答えなかった。本音の半分は、そうならないことを願っているなどとは、とても言えたものではない。だがそれは健一の本心だった。受験した以上通りたい。そして、弾みを付けて国立を受けたい。そう思う反面、私立には落ちて、国立だけ通れ。そんな虫のいい思いも嘘ではないのだ。
健一は十日ほど前に終わった立命館大学の入試を思っていた。衣笠キャンパスには時折小雪が舞った。凍えるような寒さの中を、肩を窄めて試験場に入った。三科目目の日本史は、十分に時間の余裕を残してペンを置いた。確かな実感があった。受験すること自体不本意だなどと言っていたが、やはり結果が確信出来ると嬉しかった。試験会場の存心館を出た後、健一は存心館の時計台を振り返った。時計台が、にやりと笑って健一を見た。そんな時計台に、「もういいや。京大が駄目だったら来るよ」健一は、そう語りかけたのだ。本当にそう思ったのだ。そして、この三年間で自分が無くしてしまった自信が戻ってくるのを感じた。健一はポケットの中で美樹がくれたお守りを、しっかりと握り締めていた。

健一はお茶をずるずると啜るように飲んだ。両手で湯飲みを包んでいる。
「兄ちゃん、爺さんみたいな飲み方よ」佳子がそう言って笑った。
健一は上目使いに、ちらっと母親を見た。そして、「そうかな」と言った。
あの時はそう思ったんだ。衣笠のキャンパスで取り戻した自信と久しぶりに感じた喜びと高揚感に包まれながら、確かにそう思ったんだよ。間違いなく俺自身が思ったんだ。健一の脳裏をそんな言葉が駆け抜けて行った。

健一と佳子は昼食の後、近所にある満潮鮮魚店に買い物に出掛けた。家から歩いて二十分ほどの所にあって、鮮魚店とスーパーが一緒になっている。佳子は、「これからが本番だから時間の無駄だ」と言ったが、健一は言うことを聞かなかった。ただ佳子は、そうは言いながらも、買物した荷物を持ちに来るという健一に、好きなようにさせる気持ちの余裕があった。立命館大の試験前からすると、嘘のように気持ちが軽くなっているのを隠せなかった。
考えてみれば、こうして母親と二人で歩くなんて久しぶりのことだ。健一はそう思いながら佳子と歩調を合わせながら、ゆっくりと歩いている。横を歩いている佳子は、自分の耳ほどの背丈しかない。ふいに、母親の顔を仰ぎ見るように見て笑っている幼少の頃の自分の姿が健一の脳裏を過ぎった。佳子はそんな自分に微笑みながら、健一の手を引いて歩いている。あれから二十数年、随分と大きくなったものだ。それに比べて、横にいる母親は思っていたよりもずっと小さく感じられる。髪に白い物も混じっている。そんな母を見ているうちに、健一は母親の老いを実感した。浪人を続けている自分への気苦労が、それに拍車を駆けているのは間違いない。
「やはり行くべきなのだろう」と健一は思った。「もうこれ以上お母さんにもお父さんに負担は掛けられない」そんな当たり前のことを、健一は何か大切なことを思い付いたかの様に改めて思った。
浪人を重ねること。もし仮にそのことに意味があるとしても、否(いや)も応(おう)もなしにその状況に引きずり込まれた両親や妹の心の負担が、既に限界に来ているのは言うまでもないことだ。もしかしたら身近に居る親戚や家族の友人にとっても、そうなのかもしれない。ここ一、二年、健一の家を訪ねて来る親戚や家族の友人が減っていた。健一が浪人を始めてから、周りの人達は健一の家を訪ねるのを明らかに遠慮している。まるで腫れ物に触るように大迫家に接しているに違いないのだ。それだけではなく、自分の家族と周りの人間が、互いに互いの目を正面から見ることが出来なくなっているような気さえする。互いが互いの本音を隠した作り笑いの世界の中でしか生きられなくなってしまったではないかとすら思えてきてしまう。
そんな状況を肯定出来る価値など、浪人にあるはずはないのだ。理想が何であれ、我が思いが何であれ、家族を含め人の心に陰をさす権利など、誰も持ちはしないのだ。それなのに俺は余りに自分のことだけに眼を向け過ぎて、周りの状況が見えなくなっている。自分以外の人が何も言わないということは、皆が現状を肯定しているからではなく、それが臨界点に近づいているからに過ぎないのである。そうでなければ、「あんな馬鹿放っておけ」と見捨てられたかだ。
健一の脳裏に、大正橋を走って行く母の姿が浮かんでいた。記憶の底を引きずるような幼少の頃の記憶である。当時健一の母は教員をしていた。母は毎朝早起きをして、家事を済ませた後に出勤していた。朝餉の支度から片付け、洗濯などバスの時間ギリギリまで働いて、そして息せき切って橋を渡ってバス停に急いだ。そんな母の姿を健一は毎朝、裏庭から見ていた。健一が幼稚園に行く前の頃だ。祖母と二人取り残されるような寂しさに堪えて、毎朝そんな母の姿を見ていた。
母は休む間もなく働き続けて自分を育ててくれた。もうこれ以上心配を掛けてはいけないのだ。確かに自分の夢や希望は大切にすべきだとは思う。しかしそれには限度がある。人生には無限に続く夢などありはしないのだ。何時かは自分の夢とその夢を支えてくれているものとを、冷静に見つめなければならない時が来る。それが遅過ぎはしたが、今に違いないのだ。夢を殺すのは、今なのだ。
桜並木を過ぎると日差しが強く感じられるようになった。佳子は日傘を差した。その横を健一は無言で歩いた。左手には小さな川が流れている。二人が歩いている道は、小学生の通学路になっていて、赤い舗装がしてある。健一も通学時に通った道である。何の変哲もない道だが、健一には遠い記憶を連れて歩いているような懐かしさがあった。
何処で踏み違えたのだろう。何処で行き違えたのだろう。俺は、この赤道のように、はっきりと明示されたレールのような道を歩きたかったのに。
赤道に平行して車道がある。通りがかった赤いアクセラがカーブを過ぎたあたりでエンジンを噴かした。閑静な住宅街の空気を掻き乱すようにエンジン音が響いた。
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