蒼い雨に濡れながら

(四)

健一は蒼い闇を走っている。何処までも蒼く、何処までも暗い闇である。そんな闇を健一が必死に走っている。音はない。あるのはただ凍て付いた静寂だ。動きもない。何もない。存在自体がない。そんな闇の中に健一の姿がぼんやりと浮かび上がっている。健一は全力で腕を振り上げ闇を蹴っている。健一は自分では闇を切り裂き、力強く虚空を蹴って疾走しているつもりでいる。だが、その身体は健一の意識とは違って、まるで闇にへばり付いているように、その場を動くことはなかった。健一の足は空間の歪みに引っ張られるように不自然な動きを繰り返しているに過ぎないし、身体は見えない手にいたぶられているように揺らめいているに過ぎないのだ。それは粘着剤のシートに囚われてもがくゴキブリの姿に酷似している。
もういいんじゃないのか?健一の周りでそんな言葉がゆっくりと動き回っていた。健一の顔を覗き込みながら、実在を持った言葉が健一に纏(まと)わり付く。その目は蒼く冷たく燃えながら健一を見据えた。お兄さん、もういいんじゃないのかな?ほんとに、もういいんじゃないのかな?そんなに大切なことなのか?あんたがやっていることは、そんなに大切なことなのか?何か意味があるのか?その言葉は健一を揶揄(やゆ)するかのように健一を覗き込んだ。そして、次第に怒りに堪えかねたように蒼く震えながら光った。掴み所のない存在が健一の身体に絡み付き纏わり付いて、その身体を舐めるように上昇して行った。
「何時までやってるんだよ!てめえは!」いきなり頭上から反転して襲い掛かった燃える目が健一を睨みつけ、巨大な口が耳をつんざくような大声で怒鳴って、一瞬にしてまた虚空へ消えた。
巨大な口が消えると、再び蒼い静寂が健一を包み込んだ。行かなくちゃ。健一は独りごちた。俺は行かなくては。何処へ?俺の夢の所へ。夢?夢?何の夢?「俺は行くんだよ」健一の悲鳴のような叫び声が蒼い静寂を否妻のように切り裂きながら駆け抜けた。
暖かい感触だ。穏やかな微笑みで全てを包み込んでくれるような柔らかな感触だ。健ちゃん、今年こそ一緒に京都を歩こうね。下宿でたまに御飯作って上げるからね。そんな言葉が健一の周りで微笑んでいる。暖かく柔らかな言葉の実在が健一を優しく抱擁した。安らかな微睡(まどろ)みに誘われるような感触だ。何時も一緒だった。小さい時から何時も一緒だった。私は頑張ったんだよ。あなたと一緒に京都に行きたかったから。そう、私は頑張ったんだ。健一は愛しい人を待って大きく両腕を広げた。その中に柔らかな実在が飛び込んで来た。健一はその安らかな存在を力一杯抱きしめた。愛していると言っていいのかな?俺みたいな人間でも、君を愛していると言っていいのかな?
行かなくちゃ。行かなくちゃ。止めろ。もう止めろ。止めてくれ!
健ちゃん、一緒に京都を歩こうね。
「何時までやっているんだよ!」再び喚(わめ)くような大声が響いた。再び出現した巨大な燃える口が噛み付くようにそう喚いた。
何も求めないことじゃないかしら。あるがままのあなたでいい。そのあなたの存在を確信すること。人を愛するってそんなことじゃないかしら?だから、私は今のままでもいいんだ。
健一はふいに走るのを止めた。必死に走っているつもりだったのに。必死に動いているつもりだったのに。でも、健一は自分が走り始めた場所から一歩も進んでいないことに初めて気が付いた。何なんだよ、俺の人生って。走っても走っても、進まないのなら走らない方がましだ。そうなの?それはそうかもしれないが、でも、それでいいのかな?本当に、そうなのかな?進まないから走らないというのは、どうせ腹が減るから飯を食わないというのと同じだ。進まなくても走らなきゃ。進めなくても走らなきゃ。人生なんてそんなものじゃないのかな。
健一の周りを再び得も言われぬ優しさが取り囲んだ。それは自分の存在の全てを許してくれる優しさだ。そしてそれは健一の存在の全てだ。健一、頑張らんばよ。その優しさの実在は微笑みながら健一の頭を優しく撫でた。頭を撫でられる都度に、健一はまるで時を遡るかのように、自分がゆっくりと過去の自分に帰って行くのを感じた。記憶もない。ただ自分という存在だけが知っている時間であった。母の羊水の中で、その大きな庇護を受けて健一は何の不安もなく微睡(まどろ)んでいる。何を思い煩うこともなく、何に怯えることもなく、いや、と言うより、負の感情のない存在だけが自分の全てであることに何の疑いもなく、健一は微笑むように眠っている。健一はそんな時間に帰り着いた時、叫び狂いたい程の存在への愛おしさと後悔に身悶えた。と同時に今ある自分に呪詛の言葉を吐き散らし、存在自体を破壊し尽くしたいという凶暴な欲望に身悶えた。そんな健一の頭を優しさの実在が静かに撫でている。
哀しかった。疑い様のない優しさの中で健一は泣いていた。声もなく涙もなく健一は独り泣いていた。
それでも、やっぱり、俺は、行きたいんだよ。
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