蒼い雨に濡れながら

(五)

立命館大の合格発表を明後日に控えて、美樹は、健一を図書館へ誘った。落ち着かない気分で居た健一は、直ぐに美樹の誘いに乗った。その帰り道、二人は図書館がある通りを横切り、300m程離れた所にある諌高の校庭を通り抜けて、諌早公園へ行った。
「座ろうか?」と美樹が言うと、
健一は、「ああ」とだけ気のない返事を返して、池のほとりのベンチに腰を下ろした。ベンチはひんやりと冷たい。池を横切った風が美樹の髪を撫で、その髪が健一の頬を擽(くすぐ)った。諫高の裏門を出る頃から、健一は何故か無口になった。二人は無言で眼鏡橋を見ていた。
「行ってみよう」突然健一が言った。美樹はゆっくりと立ち上がって、スカートの埃を軽く払った。眼鏡橋を渡り始める時、美樹は健一の手をそっと握った。健一は拒まない。二人は手を繋いで歩き始めた。美樹は健一を元気付けでもするかのように、勢いよく手を振った。そして、にっこりと笑った。健一も照れ臭そうにちょっとだけ笑顔を返す。健一は橋の中央部で止まった。そして、石の欄干に身体をもたせ掛けるようにして前を見つめた。健一は目の前にうっそうと茂る御書院の樹木達をじっと見ていた。寂しさの陰に、泣き笑いのような微笑を隠した横顔である。美樹は健一の視線に自分を合わせた。健一の目は御書院の木々達をじっと見ている。だが、その視線は木々達を潜り抜け、諌高の校舎にじっと注がれていた。健一は、三年前の諫高を見ているに違いないと美樹は思った。其処は、彼にとって青春と呼ばれた場所である。彼が輝き、その存在を明確に主張出来た場所である。
美樹は健一の横で同じ様に欄干にもたれかかった。そして、また健一の視線を追った。視線を感じたのか、健一が振り返った。健一の視線と美樹の視線がぶつかった。一瞬の間を置いて、健一は美樹の視線を避けるように前を向いた。
健一はやはり諫高を見ていると美樹は思った。其処には和也がいる。順子がいる。斎藤がいる。沢山の友人達の中で笑っている彼がいる。そして彼は私の方を真っ直ぐに見て笑っている。
「健ちゃん、寂しいんだね」美樹は心の中でそう呟いた。そして「健ちゃん、寂しいなら、私に言ってごらんよ」そう言おうとしたが言葉にならなかった。
二人は黙ったまま欄干にもたれたまま自分達の諫高を見ていた。池のほとりでは子供連れの若い夫婦が、鯉に餌をやっている。投げられる餌に我先にと飛びつく鯉達の激しい動きで底の泥が撹拌され、水面には水飛沫が上がっている。子供の嬌声が聞こえる。母親の笑い声がする。
「彼の人生って一体何なのだろう?」美樹は思った。本意不本意はあるだろう。しかし同級生達はそれを乗り越えて、少しずつ自分の人生を築き始めている。私だってその一人だ。それなのに、この人の生き様って一体何なのだろう?価値があるのかないのか分からないようなものに、自分の人生を賭けるつもりなのだろうか?京大に入るか入らないかということは、彼の人生にとってそれ程大きなことなのだろうか?今の彼にとってはそれが全てであることは分かっている。全てを超越した絶対目標であることも分かっている。しかし、大げさな言い方かもしれないが、だからと言って、それは彼の将来を賭けてやる程の価値があることなのだろうか?今の人生の全てを支配するものであっても、一歩引いて見てみれば、それにそれ程の意味があるとは思えないものだってある。それが何の意味もないものである可能性だってあるのだ。今の彼にとっての全て。それがもしかしたら何の意味も持たないものに変質する可能性だってあるのである。多分彼はそのことを知っている。知っているからこそ、それに固執する自分が寂しいのだろう。そうしようとする自分が哀しいのだ。そうさ、それが俺の人生さ。そう笑って嘯(うそぶ)けない健一の哀しさが美樹の胸を打った。
弾けるように華やいだ声が聞こえた。寄せては引く潮騒のよう高く低く飛び交う話し声と笑い声。屈託のない明るさ。健一は声のする方を見た。女子生徒が四、五人笑いながら裏門から出てきた。週末の補講が終わったのだろう。その横を学生服姿の男子生徒が数人通り過ぎた。本名川沿いの道を急ぎ足で諫早駅に向かって歩いている生徒達の姿も見える。二人の女子生徒が、小走りに道路を横切った。彼女達は、「ISAHAYA」と紫の文字が入った白いトレーナーを着て、手にはバスケットシューズをぶら下げている。そのシューズが激しく揺れた。その後ろを白いウインドブレーカーを着た長身の女性が続いた。
健一はそんな生徒達の動きをじっと見つめている。忘れかけた高校時代が、ほろ苦くくすぐったいようなノスタルジアを呼び起こしていた。それは健一にとっては、ただ懐かしいだけの記憶の残像ではない。そこには健一の胸を掻き毟るような悔恨と羨望が顔を覘かせていた。何の屈託もなく笑い合う彼らの姿。それはかつての健一の姿であった。というより誰もが持っている青春の姿である。だが健一のそれは、大学受験を契機として灰色に色を変えた。と言っても、健一とてそれなりの年齢の、それなりの青春を過ごしている一人の青年に過ぎない。何処にでもいる青年で、何も特別に変わった存在ではないのだ。しかし、人知れず引きずり続けるデラシネのような存在感の希薄さ、毎年繰り返される喪失感が、何時しか健一の青春と呼ばれる時間に、どんよりと淀んだ暗い陰を落とし、その爽やかさを消した。青空は何時の間にかどんよりと曇ったのである。そんな空の下にいるしかない自分を見た時に、健一は自分が存在している時間が、とても青春などと呼べるものではないことを実感するほかなかった。そして、健一を覆う暗い空は、これまで生きてきた健一という一人の人間の存在を崩壊させてしまうような危うさに満ちた心の翳りを健一にもたらし続けるのである。
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