蒼い雨に濡れながら

(六)

健一は美樹の部屋の中央に置かれた小さな炬燵に座っている。炬燵台の上には飲みかけのオレンジジュースと口を付けていないオレンジジュースが載っていた。健一のコップのストローは吸い易いように30度程に曲げられている。健一はコップを持つと口を窄(すぼ)めるようにストローを咥えた。美樹は机の椅子に腰掛けている。小春日よりの穏やかな陽光が部屋の中に差し込んでいる。
そんな穏やかな光を、「馬鹿なこと言うもんじゃないわ」と美樹の激しい声が切り裂いた。怒っているのか泣いているのか美樹の顔が歪んでいる。眉間には険しい溝が刻まれている。
「馬鹿なこと言うもんじゃないよ」美樹は呟(つぶや)くようにもう一度言って立ち上がった。その勢いで椅子がくるりと回った。美樹は窓際に行くと、壁に右手を掛けて、乗り出すように身体を預けた。風がさっと美樹の頬を撫で、その髪を微かに揺すった。その絹のようにきめ細かい髪が横顔を隠すように靡(なび)いた。その髪を美樹が煩(うるさ)そうに払った。木々達のざわめきが聞こえていた。
「現役の時はまだ許せる気がした。健ちゃんがそこまで思っているのなら、と私なりに納得した。一浪、二浪の時は仕方がないと思った。だって行く所がなかったんだから。でも今度は違う。絶対に違う。私言ったじゃない、私待っているって。信じているって」
健一は何も言わない。貝のように口を閉ざしたまま白色の封筒をじっと見ていた。封筒には、大迫健一様と楷書で書かれている。朱色で、入学手続き書類在中と書かれている。その封筒をじっと見つめた。
美樹の燃えるように激しい目線が、そんな健一を突き刺した。
「健ちゃん、忘れてないよね?現役の時も一浪の時も、二浪の時も、結局あなたの御両親は何も言わなかった。最終的には言葉を押し殺すことが、自分達の気持ちを押し殺すことででもあるかのように、口を閉じてしまった。あなたのお母さん達もそれで済む問題じゃないけど、それにしても、もうあなたもいい加減に御両親の本音に気が付かなくてはいけない。あなた自身、これまでと同じじゃあいけない。もう繰り返してはいけないんだ。健ちゃん、私が言ってあげようか?お父さんとお母さんの気持ちを私がはっきりと言ってあげようか?息子への情に流された自分達への自嘲の薄笑いを浮かべながら、「だから言ったじゃないか」ってね。「だから、現役の時に立命館に行けって言ったじゃないか」ってね。「二年経っても三年経っても結局は同じことだ。もういい加減にしてくれ。何故喜んで立命館に入りましたって言ってくれないんだ」ってね」
美樹はそう一気に捲(まく)し立てると、ふっと言葉を切った。そして、腕組みをして空を見た。美樹が言葉を切ると、二人の間を白々とした沈黙が支配した。
その冷たく凍り付いたような空間を無言の饒舌が飛び回っている。それはニタニタと嗤いながら、健一を覘き込んだ。
キョウダイガ ダメナラ リツメイカンニイク!ソウスルト ハラヲククッテ ジュケンシロ!ソシテ ダメダッタラ リツメイカンニイケ!ソレデ イイジャナイカ! ナニヲ マヨッテイル ナニヲ マヨウコトガアル?ナゼダ? ゴウカクシタラ ナゼ ソコニ イカナクテハ イケナインダ? オレノ ジンセイダロウ?オレノ イキザマジヤナイカ? オレノ ユメジャナイカ?モウ イイ
モウ イイカゲンニシロ キキアキタ アンタノ ヘリクツハ モウ キキアキタ ヤメロ! モウ ヤ メ ロ! ワタシト キョウトヲ アルコウヨーーー
健一は背を向けて外を見ている美樹の後姿をじっと見つめた。その脳裏を合格発表の光景がゆっくりと歩きながら通り過ぎた。

大勢の人間達が押し合いへし合いしている。我先にと掲示板の前に殺到し、自分の番号を探している。一人の男性が泣いている。息子の手を握り万遍の笑みを浮べて泣いている。後方では胴上げが始まった。いきなり、おめでとう!オメデトウ!の大歓声が上がった。その輪の中心で学生服の受験生が顔を真っ赤にしてお礼を言っている。そして、ボート部の在校生の手で、その受験生は歓声に包まれながら宙を舞った。そんな混雑の中で一人の男が掲示板の前に立ち尽くしている。俺はその様子を見て、落ちたのだなと思った。だがその男は、突然、拳をしっかりと握り締めると両手を天に突き上げた。そして、「バンザイ」、彼はそう言った。喜びを押し殺して、搾(しぼ)り出すような声でそう言った。周りに居る人達が彼を見た。そして、微笑を浮べた。彼は少しだけ身を縮め、次に伸び上がるようにして、もう一度万歳をした。俺は、まるでスローモーションを見るように、その姿を見ていた。満身の力を込めた彼の拳が頭の上で細かく震えている。しっかりと握り締められた拳には青筋が立っている。暫く彼はそうしていた。そして、「よっしゃ!」そう呟くと勢いよく拳を下ろした。そして、ふっと小さく溜息を付いた。そして、「入ったね」彼はそう自分に言い聞かせるように呟(つぶや)いた。そして彼は、「やったよ。合格したよ」と、もう一度呟いて小さく頷(うなず)いた。健一はもう一度彼の横顔をチラリと見やった。そして、凍り付いたように動きを失くして、もう一度男と同じ紙を見つめた。穴が開くほど見つめた。何の変哲もない一枚の紙である。其処にコンピューターから打ち出された数字が整然と並んでいる。少し薄れたゴシック体の数字の列だ。何の表情も感情もない無機質なインクの跡である。だが、人生と言う縮図がびっしりとへばり付いている。ただ、その数字の列に連続性はない。諦めきれずに健一は何度も何度もその紙を見た。僅か三十㎝程のスペースを、何十回も、見つめた。連続性のない数字の列を暗記する程見つめた。だが、そこに「R046」という数字はなかった。
「ないね、やっぱり」健一はぽつんと呟いた。そして小さく頭(かぶり)を振った。諦め切れなかった。どうしても諦めることが出来なかった。健一は未練がましくもう一度数字を追った。何度見ても数字は「R039」から「R058」に飛んでいる。健一は百回も二百回も見た紙をやっぱり諦め切れずにもう一度見た。そして、また小さく溜息を付いた。
「あなた通りましたか?」隣にいた中年の女性が突然健一に弾けるように声を掛けた。彼女は娘と抱き合って、歓喜と幸福が飛び跳ねているような笑顔を振り撒(ま)いて、そして、事実半分小躍りしながら、悄然として立ち尽くしている俺にそう言った。笑いながら、そう言いやがったんだよ。

健一は悔しさの中でその光景を見つめた。百回も二百回も見つめた。そして、またその光景が健一の前を通り過ぎて行く。健一が屈辱の中に帰れば帰るほど、この三年間繰り返された言葉達が勢いを増した。そして健一の周りを激しく飛び回った。美樹の頬にぶつかって悲鳴を上げ、健一の心を蹴っ飛ばしてはゲラゲラと嗤(わら)った。壁という壁にぶつかっては弾け跳び、弾け跳んではまたぶつかった。部屋の外では白い雲がゆっくりと流れていた
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