蒼い雨に濡れながら
「浪人したからといって皆が皆、学力が伸びるわけじゃない。二年も三年もやって、そんなこと位、もう分かっているよね。予備校のパンフレツトみたいに皆が皆、学力が伸びるわけでも志望校に入れるわけでもないんだ。それなのに、あなたのご両親は気付いていながらそのことに目を瞑ってきた。そしてあなたの為に屁理屈を付けて、自分の気持を納得させてきた。でも本当は分かっているはずなんだ。親の直感として分かっているはずなんだ。あなただって気付いているはずだ。三年間チャレンジして駄目なら、またやっても駄目なんだよ。それがあなたの限界なのよ。今年入ればいいってもんじゃない。無理があるんだよ。仮に合格したとしても、将来どこかで無理がくるんじゃないかしら?それでも、入ればそれなりに道は開けるかもしれないけど、そんなに無理するより自分に合った場所で、最高を目指した方がいい。無理をして這い蹲(つくば)るより、場所を得て胸を張って歩いた方がいい。だから、何が何でも京大ではなく、立命館に入ったなら、それを素直に喜べばいいんだ。だめならそこに行くんだと割り切った上で、夢を追えばいいんだ。何がだめならもう一年やるなのよ!何が本当は行きたくないなのよ!馬鹿じゃないの。また同じことを繰り返す気なの?あなた正気なの?」
健一はもう一度炬燵台の上に置いた封筒を見た。何度見ても何の変哲もない白色の封筒である。その封筒には、「大迫健一様」そう書かれている。「入学手続き書類在中」と書かれている。ただそれだけの白い封筒である。その文字がじっと健一を見つめている。
多分辛かったのだ。多分寂しかったのだ。この三年間の浪人生活が健一の脳裏を過ぎる。小躍りしなければならないはずだ。お父さんとお母さんと手を取ってその封筒の周りを小躍りしなければならないはずだ。その封筒を美樹と二人で持って、万歳を三百回しなければならないはずだ。健一には涙を流して喜んでいる母親の姿が見えていた。喜びを押し殺して煙草を吸っている父親の姿が見えていた。なのにーーー。健一はもう一度封筒をじっと見つめた。
美樹が言うように浪人をしたからといって、来年合格する保証はないのだろう。それどころか、学力を維持出来るかどうかも分からない。浪人したら、きっと学力が伸びるだろう。きっと合格できるだろう。そんなことは、楽観的な幻想に過ぎないのである。それはこの三年間で身に沁みたことではないか。
それにしても、何故、俺は第一志望校に合格しないのだろう?皆と同じように頑張ってきたはずだ。いや、人一倍努力したはずだ。それなのに、何故俺は合格しないのだろう?合格した人と何処が違うのだろう?勉強のやり方なのだろうか?勉強時間だろうか?取り組む姿勢の問題なのだろうか?それとも、執念の差なのだろうか?そう思った時、健一はふいに薄く笑った。そう、全てはその通りなのだ。そして、もう一つ大切なものをあんたは忘れている。本当は自分でも気付いているんじゃないのか?それに目を瞑りたいだけじゃないのかい?言ってあげようか?それはあんたの単純な過信なんだよ。自分自身の資質への過信なんだ。そうでなければ誤解だ。あんたはそれを忘れて、鏡に映った我が身に酔い痴れているナルシストの様に、受験という鏡の中でうっとりしているだけさ。

「馬鹿じゃないの」美樹がもう一度独り言のように言った。
そうさ。馬鹿さ。大馬鹿さ。健一は心の中で大声で喚(わめ)いた。馬鹿で悪いか。
そう叫んだ時、もう一人の自分が、
悪いに決まっているじゃないか
と冷静に言った。何を考えているんだい。悪いに決まっているじゃないか。馬鹿はいない方がいいんだよ。もっと言えばあんたなんかいない方がいいんだよ。
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