蒼い雨に濡れながら
「もう一度言うけど、馬鹿なことしないでね。健ちゃん。本番はこれからなんだから、余計なことを考えないでね。だめなら立命館に行く。そう思えば、気も楽でしょう?その方がきっといい結果が出るに決まっている」そう念を押す美樹の声を背中で聞きながら玄関を出ると、健一は「じゃあね」と言ってドアを閉めた。ドオーンという重々しい篭(こも)った音がした。それは美樹の声を遮断するかのように健一には感じられた。
健一は家に戻ると、逃げるように二階の自分の部屋に駆け上がった。その姿を追いかけるように、居間から、「お帰り」そう言う婆ちゃんの声がした。その声を無視して、健一は急いでドアを閉めると、持っていた封筒を机の上に放り投げた。そして身を投げ出すようにベッドに寝転がった。窓際に置かれたベッドの上には、柔らかな日差しが差している。硝子の中を通る陽光がきらきらと輝いている。眩しくて目を開けていられなかった。健一は急に身体を起こすと、封筒を引出しの奥にしまった。溜息が出た。
机の横には四段の黒いスチール製の本棚が置いてある。参考書や授業で使ったプリントが乱雑に並べられている。その二段目に九十㎝の水槽が置いてあった。水槽の上部にセットされている濾過フィルターが微かな水音を立てている。水槽は薄いブルーの蛍光灯の光に照らされて神秘的な色合いを見せている。底には白い大理石が置いてあって、その陰から、エアーストーンの小さな気泡が絶え間なく上っている。健一が近づくと水槽に動きが起こった。それまでは優雅に泳ぎ回っていたゴールデンエンジェルとパールグラミーが一斉に近寄って来た。底では水草の間からグラスフィッシュが健一の方を覗いている。知らん顔をしているのはネオンテトラだけだ。エンジェルやグラミーはこの水槽に来て間もない頃は、健一の姿を見ると水槽の奥へパッと逃げていたが、最近は逆に姿を追って泳ぎ寄って来る。そして餌をねだる時には胸鰭を激しく動かし、くねくねと身体を揺すって催促する。何時の頃からそんな仕草をするようになったのか忘れたが、その様は動物園の象が、見物人の持っているバナナをねだって何度もお辞儀をしていた光景を連想させた。健一は水槽の表面を指先でトントンと軽く弾いた。グラミーが慌てて水面に浮かんで口をパクパク動かした。条件反射なのだろう。餌をやる時に何時もそうしているので、彼らはその次にブラインシュリンプや赤虫が水面に浮かぶのを知っているのだ。グラミーは水面から口を半分出してせわしなく泳ぎ回って餌を探している。落ちて来ない餌を探しながら、愛らしいクリクリした目は催促するようにしっかりと健一を見ている。しかし健一は餌を与えなかった。エンジェルがくねくねと身体を揺すっている。
「ばぁーか。誰がやるもんか」健一は餌をねだっている魚に悪態を付いた。

健一は机に座った。そして、また水槽を眺めた。水槽ではエンジェルフィッシュが相変わらず鰭(ひれ)を激しく動かしながら身体をくねらせて、健一に存在をアピールしている。だが、健一はそんな魚達を無視した。エンジェルは更に水槽のガラス面に寄ってきた。そして激しくアピールを繰り返した。その内、アルタム種と間違えるほど胸鰭の長い一匹のエンジェルが、ふいにダンスを止めて反転した。すると他のエンジェル達も一斉にダンスを止めて、さっと水槽の奥へ消えた。彼らは奥に消える前に一斉に健一を見つめたような気がした。岩の陰ではグラスフィッシュが透明な身体を微かに揺らしながら、じっと健一を見ていた。
健一は深い憂鬱の中で窒息しそうな気がした。綿のような憂愁が全身に絡みつき、健一の心を締め上げていた。それは払い退けても、払い退けても、次から次へと健一に絡み付いてくる。押し潰されそうな圧迫感の中で、健一はふいに大声で喚き散らしたいような衝動に駆られた。だが、健一は、バカヤロウ!と大声を上げる代わりに、「クソッタレガ!」と呻くように悪態を付いた。健一は身体を起こすと窓を開けた。そして窓の桟を両手で掴んで身体を乗り出した。陽光が眩しい。庭木の枝の隙間から先ほどまで一緒にいた美樹の部屋が見える。窓が開いている。だが、部屋に美樹の姿はない。健一は暫くそうして外を眺めていた。眩しい程の太陽を抱いた青いキャンパスの上を白い雲がゆっくりと流れている。
長い三年間だった。でもあっと言う間の三年間だったような気もする。いずれにしても確かに言えることは、その間に現役で入学した同級生達は卒業するまでに一年を残すだけになったという事実だ。自分が足を踏み入れていない場所から既に巣立つ準備に入っているという事実だ。三年間という年月はそんな時間なのだ。なのに、俺は一体何をしているのだろう。美樹の悔しさに歪んだ顔が浮かぶ。その憤怒に燃えた目は光を失った後に、じっと俺を見つめた。哀しそうな目だった。健一は小さく頭(かぶり)を振った。
もう嫌だ。そんな言葉が浮かんだ。健一が溜息を付くように頭を振ると、頭の中で後悔が、からんころんと音を立てた。溜息は意地に当って、からんと跳ね返り、自嘲にぶつかって、ころんと転がった。
するべきことは分かっている。そして、したいことも分かっている。全ての肯定だ。そして肯定の否定だ。そして残ったものは、否定への懐疑だ。それを超えた肯定だ。分かっているはずなのに、俺は何をどうしたいのか。明確な結論にまた目を瞑る気か。それが如何にも、そうすべきことのような顔をして。そうするのが当然であるかのような面をして。俺はまた一つ哀しい墓標を建てるつもりなのだろうか。意味のないことだ。あんた、そう薄々感じているのだろう?いや、はっきりとそう感じているのだろうが。
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