蒼い雨に濡れながら
「ちょっと出て来るけんね」
健一は、階段を降りながら婆ちゃんに声を掛けた。そして玄関先に座り込んでスニーカーの紐をしっかりと締め直した。黒いバックスキンが貼られているスニーカーの右足の甲が土で汚れている。
「何処に行くとね?」婆ちゃんの声がする。間の抜けた口調だ。
健一は振り返ったが直ぐには返事をしない。健一にはその声が酷く疎ましく感じられた。婆ちゃんが部屋から出て来る気配がしたので、健一は急いで玄関の戸を開けた。
「ちょっと其処まで。直ぐに帰る」健一は戸を閉めながら言葉を濁すと、玄関先のバイクに跨(またが)った。
「怪我せんように行かんばよ。大事な時期だからね」
スターターボタンを押す健一の背中で、婆ちゃんの声がする。セルモーターが乾いた音を立てた。

何処へ行くという明確な宛てなどない。健一は、家を出ると、美樹の家の前で一旦バイクを止めた。健一はヘルメット越しに玄関を見た。ぶ厚いドアが健一を拒否するように閉まっている。外灯の下の小さなフクロウの飾りが目に付いた。健一はスロットルを二、三度軽くふかした。ブルンブルンというエンジンが吹き上がる音が響く。健一はゆっくりと走り出した。そして一気にトップまで加速した。健一のバイクはあっと言う間に美樹の家の前から消えた。乾いた砂埃だけが風の音を追った。美樹の家の玄関先には金属質の甲高いノイズの余韻が何時までも残っていた。

健一は泉町の交差点を越え、国道207号線を鹿島方面へ走った。沿線にはスーパーやパチンコ店、居酒屋、古びた民家等が、雑然と立ち並んでいる。二十分ほど走ると肥前長田駅に来る。健一は、「長田」の交差点を右折して、郵便局の前にバイクを止めた。右手に海産物店がある。よしずが立掛けられた店に人影はなく、ひっそりと静まり返っている。目の前に広がっている諫早平野にも動く物はない。まだ稔りの季節からは遠く、平野は安逸な平穏に浸り切っているように静まり返っている。ほんの数メートル離れただけで国道を走っている車の音さえも、やけに遠く感じられる。健一を取り巻く空間は、現実からぽっかりと乖離し、動きをなくしたかのように空疎であった。それは昼下がりの惰眠を貪っているように実存感覚が希薄で、何ともふわふわとして掴みどころのない感覚であった。
健一は長田交差点で右折した。そして、郵便局前の路肩に停車した。健一の目が国道に戻された。そのまま鹿島方面に向かって国道を二十分程直進すると高来(たかぎ)町に入る。更に進むと右手に広がっていた平野は何時しか諫早湾に溶け込み、湯(ゆ)江(え)までの国道沿いに名物の牡蠣小屋が散見される。
一昨年の冬、この牡蠣小屋に牡蠣を食べに来たことがある。店に入り切れない車が路肩で順番待ちをしていて、健一達も三十分程待たなければならなかった。牡蠣小屋は簡単な囲いと屋根があるだけで、小屋の横には薪が山のように積まれている。小屋の中には牡蠣を焼く石造りの炉が十五個程作られていて、その前には大木から切り出したばかりのような長椅子と丸太の椅子が置かれている。健一達は入り口近くの炉を囲んだ。冷たい海風が吹き込んで来る。その風向きが変わると店中の煙が一斉に健一達に襲い掛かった。「煙たい!」美樹がそう言って、煙の襲撃にくるりと背を向けた。炉に置かれている金網に牡蠣を殻のまま載せて焼くのだが、牡蠣が焼け始めると沸騰した貝汁が次々に薪に滴り落ちる。そしてジュッと音を立てながら新たな煙を吐き出した。ゴーグルを掛けている人が居て、用意がいい人も居るものだと思っていたら、店の柱に数個のゴーグルが掛けてあった。もうもうと立ちこめる煙の中に香ばしい潮の香りが漂い始め、牡蠣の蓋が少し開くと、其処にナイフを突っ込んでこじ開けて食べるのだが、殻の中は貝汁が沸々とたぎっていて目を見張るほど美味(うま)い。健一は美樹に焼けた牡蠣の殻を開けてやった。美樹にばかりそうしていたら、「私にも開けてよ」と真奈美が文句を言った。焼けた殻は熱いので軍手をして開けるのだが、その時に汁を軍手に零(こぼ)そうものなら大変だ。布に一端染み込んだ汁は何時までも熱く、堪らずに絶叫するはめになる。案の定、美樹も真奈美も三、四回に一度位の割合で、「アッチ!」と絶叫している。笑い声と叫び声と声高の話声、あちこちで沸き上がる絶叫を聞きながら、無心に食べる快感は何物にも代え難い楽しさだった。
そんな牡蠣小屋の風景を思い浮かべながら、健一は再び、スターターを押した。エンジンが、周りの静寂を蹴散らすように乾いた音を立てて始動する。健一は再び走り出した。そして白木峰高原へ向かった。収穫時は、名産の玉葱(たまねぎ)で溢れ返る農協の倉庫も今はひっそりと静まり返っていて、玉葱を入れる青いプラスチックの箱が外に山積みされていた。「日本一の いさはや たまねぎ」と書かれた巨大な看板が周囲の雰囲気から浮いている。動く物もなく、昼寝をしているような諌早平野が、昼下がりの静けさを強調していた。健一はそんな田園風景の中で風になった。長田中学校を過ぎて、上り坂に差し掛かると、健一はスロットルを一気に全開にした。甲高い悲鳴のような金属音を上げて健一のバイクは瞬時に加速した。
バカナコト イウモンジャナイヨ そんな声が聞こえた。ニイチャン コトシハ イクヨネ? そんな声が聞こえた。 ロウニンシテ ナニニナルンダイ?そんな声が聞こえた。
デモ オレハ アキラメ キレナイ ンダヨ
バカナ コト イウ モンジャ ナイ
デモ ソレガ オレノ イキテイル アカシ ナンダヨ
ジャア シネバ
健一は更にスピードを上げた。鋭いエキゾーストノイズが飛び回る言葉の闇を切り裂くように響いた。

美樹は窓辺に座ってぼんやりと外を眺めていた。庭木の間から健一の家の玄関が見える。健一がヘルメットを被りながらバイクに跨(またが)り、自分の家の前で一旦止まって、すぐにまた走り出したのを、スローモーションでも見るようにカーテンの陰から見ていた。健一は私の存在に気が付いていたのだろうか?彼が私に気付いたようには見えなかった。私の姿を見つけたならば、彼は手を振るはずだ。考えてみれば私も私だ。私は、何故彼に手を振らなかったのだろう。どうして私が見ていることを彼に知らせなかったのだろう。健一の動き。そしてそれを見ていた私の動き。まるで空気という紙に書かれた紙芝居を一枚一枚捲(めく)るような動きだった。健一の姿が視界から消えると、美樹は父の盆栽に目をやった。太く曲がりくねった黒松が、鉢の中にどっしりと根を下ろしている。その一つの鉢の中には一つの小宇宙が形成されている。その小さな空間は確固たる世界を主張し、一本の松はその中で揺るぎない自己の存在を主張している。永遠に続く時間というものを自己の存在に取り込みながら、その年月に成長し続けた自分というものを、明確に主張している。遅々とした歩みではある。しかし、その確かな歩みは、今ある自分に見事に昇華していた。それが存在するということなのだと美樹は思った。その存在の確かさこそが、生きていることの証に違いないのだ。だとするならば、それは健一という存在の対極にあるものである。その存在はデラシネのように漂うだけの塵のようなものに過ぎない。それは蒼い雨の核となって消えていくだけの存在なのかもしれないのだ。卑小な存在である。居ても居なくてもいいような脆弱な存在である。だが、仮にそうであったとしても、その存在を明確に否定出来るのだろうか。
「健ちゃん、何処に行ったのだろう?」美樹は独り言のように呟いた。「言い過ぎたのかもしれない」
美樹は健一とのやり取りを後悔していた。走り去った健一の後姿が、何時までも眼の奥に焼き付いて離れなかった。前屈みにバイクに跨っていたその後姿が泣いていた。そして、エキゾーストノイズが、健一の悲鳴のように響き、その余韻は哀しみを引きずるように糸を引いた。

美樹は窓際を離れて机の前に座った。机の上に置いているスタンドミラーに自分の顔が映っている。丸い銀色のフレームに飾られた鏡に映っている自分の表情は白く、現実を見ているのか見ていないのか、何処か掴み所のないぼんやりとした表情に見えた。ただでさえ実感のない鏡の中で、自分の顔が更に実感を失くして浮かんでいる。そんな自分の顔を見ながら、美樹は赤いルージュを手に取った。そして、意味もなく唇に塗った。何か満たされないものがある。心の中にポッカリと空洞が口を開けていて、何時もならその空洞を何かしら慌しい日常が埋めてくれるのだが、今日はその空洞が満たされないままに何かを渇望している。
美樹は唇に塗ったルージュで、両頬に赤い丸を描いて塗り潰している自分を想像した。赤く大きく塗られた丸の周りは真っ白に塗ればいい。そして目の周りに狸のような縁取りをすればいい。そして、プラスチック製のダンゴ鼻を付けて、とんがり帽子を被れば完成だ。そんな私は俯き加減に哀しそうな目をして、とぼとぼと歩く。そして、急に顔を上げると、笑顔を振り撒きながら、軽やかなステップを踏むのだ。そして、「どうだい、私にお似合いだろう」とそう呟くのだ。
「でも、私は何時まで待てばいいのさ」私はとんがり帽子を振り回して、こぼれるような笑顔を振り撒きながらそう一人呟くに違いない。
多分彼は京大に失敗したら、今年も私大には行かない気なのだろう。そして そんな彼を やっぱり 私は また 待つのだ。でも、私は、何時まで、待てば、いいのだろう?
私だって待つことが嫌になることだってあるんだよ。彼はそのことがまるで分かっていない。現状の中に長く浸り過ぎている為に、現状が何の変化もなく流れて行くことに慣れてしまっている。それを当然のことと受け止めている。そして周りも自分と同じように流れて行くものだと信じて疑わない。
「馬鹿じゃないかしら」美樹はそう毒付きたくなった。「脳天気もいいとこだ」そして、それに付き合っている自分も大馬鹿だと思った。
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