蒼い雨に濡れながら

(七)

「健一が中学生の時やった」高田正雄が妻の明子に言った。正雄は佳子の弟である。中華料理店を経営している。正雄は胡坐をかいて、大柄な身体を縮めるように座っている。テーブルの上ではホルモンが美味そうな音を立てて焼けている。正雄は菜箸を伸ばして丁寧にホルモンを裏返した。
「何時だったか、健一が九百点満点の試験で八九五点だったとか八九四点だったとか言いよったろう。覚えとらんね?何点取れるかじゃなくて、何点間違えるかの勝負さ。とか何とか偉そうに言っていた」
「そうでしたかね?」明子は言った。「私はよく覚えてないけど」
「実に鼻持ちならん言い方やったから、俺は今でもよく覚えてる」正雄はそう言いながらホルモンを一片口に入れた。そして、旨そうにビールを飲んだ。二人の前をホルモンの香ばしい匂いが流れて行った。明子が生焼けの白い内臓片をひっくり返すと、鉄板の上でジュッと音を立てて白い煙が上がった。
「それはどうでもいいんだけど、何かおかしいと思わんね?」
「何がですか?」明子が肉片をもう一度ひっくり返しながら言った。
「受験には、とんでもないことが付き物だとはよく聞く。現に今里さんのお嬢ちゃんもあれだけ優秀やったけど、前日に急に熱を出して失敗した。そんなのなら分かるんだけど、健一の場合は何か変さ。俺にはあいつが二年も三年も失敗するなんてどうしても解せん。親戚中の期待を一身に集めながら、それにあっさりと応えてきた奴だからね。一年なら分からんじゃない。アクシデントもあるんだから。でも受験になった途端にそんなに流れが変わるもんやろうか?そんなに急に点が取れんようになるものやろうか?何かが変だとは思わないね?俺はどうしても解せん。健一は運不運と言うけど、本当にそうやろうか」
「そんなこと言っても、健ちゃんが落ちたのは事実だから仕方ないでしょう。受験は結果が全てなのだから。不合格という結果に至るまでに、幾ら点数を取っていても、それが加算されるわけじゃない。過程がどれだけ優れていても、落ちれば負けなのよ。それだけのこと。
でも、お父さんがそう言うのなら、お払いにでも行ってみましょうか?私達に出来ることはそれ位しかないんだから。お姉さん達に言えば気にするから、黙って私達だけで行きましょう」と明子が言った。明子はそう言いながら佳子の横顔を思い浮かべていた。
佳子はここ一、二年ふとした拍子にひどく思い詰めたような表情を見せるようになった。以前にはなかった表情だ。健一の浪人生活が原因であるのは言うまでもないことだ。明るく振舞ってはいるが、恐らくは真奈美だって同じような表情を、何処かに隠しているに違いない。明子は真綿で締め付けられるような重圧から一刻も早く大迫家を開放してやりたいと思った。人間が出口のない掴み所のない重圧に、何時までも耐えられるはずはないのだ。必ずどこかで破綻する。そうなる前に、身近にいる者の一人として、何とかこの異常な状態の幕引きをさせねばならないと明子は思った。しかし、そう思ってみたところで、現実的に自分達に出来ることなど何もなかった。
「俺にはよく分からんけど一体大学って何やろうか?」と正雄が言った。「最高学府とか何とか言うけど本当にそうやろうか?本当に学問の頂点に位置する場所やろうかね?俺には分からん。もし仮にそうであっても、人生はそれだけじゃあなかろう。他にも大事なことは一杯ある。学問がどうのこうのも大事だけど、問題はどうやって生きて行くかだと思うよ。学問だってその一つの手段さ。それ自体が目的じゃない。俺は出汁(だし)の作り方から麺の茹(ゆ)で具合まで親父のやり方を見様(みよう)見(み)真似(まね)でマスターした。それに俺の味を加えて、俺のチャンポンの味を作って来た。京大でコンピーターを駆使して最高の旨味を作ったとしても、それを使ったチャンポンより俺のチャンポンが絶対美味いと思うよ。コンピーターでは出来ない人生の旨味が入っているからね。人生なんてそんなものじぁないのか?健一が固執しているものが俺には理解出来ん。大学だけが全てじゃなかろうが。ましてや何故京大でなければならんとやろうか?」
「お父さんが言うことも、分かったようで分からないような。健ちゃんが目指しているものも分かるようで分からないような」明子が笑いながら茶化した。しかし、そう言いながらも正雄が言うように、大学だけが生き様の全てではないという考え方は、恐らくは正しいのだろうと思った。人の生き様なんてそんなものだろう。どれが正しくてどれが間違いだなどというものはない。あるがままに生きていけばいい。それが人生のあやに翻(ほん)弄(ろう)されることもあるだろう。でも、それはそれでいいじゃないか。それが人生だ。吉と出るか凶と出るか。その賽(さい)の目は誰にも分かりはしないのだ。振られる壷に翻弄され、そして投げ出された時に出る吉凶を、その時点での自分の在り様の最適な方法で具現化していくだけなのだ。そして、それに自分で責任を持てばいい。健一が分からないのは当たり前かもしれないが、誰かがサジェストしてやらねばならないと明子は思った。それを健一が受け入れるか受け入れないかは別にして、誰かが話すことにより彼の何かが変わればいいと思った。

翌日正雄は内田さん宅に出前に行った。内田さんは、正雄が経営している中華飯店から十五分程の所に住んでいる。月に何度も出前を頼む昔馴染みのお客さんだ。
「毎度」そう言いながら、正雄は玄関先にチャンポン三杯とギョウザ二人前、割箸を下ろした。チャンポンの汁が零れないように注意した。長方形の盆を持って出て来た奥さんが、やせて年相応に皺(しわ)だらけの手でお盆にチャンポンを乗せながら、「あんたのお姉さんの息子さんはどうやったと?」と訊いた。
「何がですか?」正雄はアルミ製の出前箱の蓋を閉めようとして怪訝(けげん)そうに内田さんを見た。眼鏡が鼻の上にチョンと乗っている。
「大学さ」奥さんは言った。「今年はどうやったと?今、西山さんが遊びに来とらすとよ。中華飯店の昔話から姉さんの話になってね。西山さんのお孫さんは、大迫先生に数学を教えてもらったこともあるし、息子さんが浪人しとらすのを知っとらしたとさ。初めて聞いてびっくりした。私はそんなこと全然知らなかった。あんたの姉さんは小さい時からよく知ってるし、子供さんもよく出来るって聞いてはいたけどね。心配になってさ。あんたが来たら聞いてみようと思って」もっともらしい言い方だ。内田さんはチャンポンを盆に乗せたまま玄関先に坐り込んでいる。
正雄は他の出前もつかえていたので、「今年はまだ分からんけど、多分大丈夫やろうと言ってました」と言って話を早く打ち切ろうとした。
「何浪しとらすとね?西山さんは二年も三年もと言いよらすけど、本当ね?」
正雄は苛々してきた。「やぐらしか。このくそ婆が。人の息子が何浪しようが勝手やっか。自分に何も関係がないくせに、人のことを興味本意で噂しやがって」と腹の中で悪態を付いた。正雄はむかっ腹を立てたが作り笑いを浮かべて、「チャンポンが1650円、ギョウザが800円で合わせて2450円です」とだけ言った。そして代金を受け取ると、「有難うございました」と言って玄関を出た。そして、出前用のカブ号に跨(またが)ると、あっという間に内田家から消えた。汁が零れないように出前箱掛けに付けられたクッションのスプリングがギイギイと鳴った。
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