蒼い雨に濡れながら

(八)

俊太郎は茶碗を洗っている佳子の後姿を見るとはなしに見ながら、煙草をふかしている。心なしか妻の背中が前屈みに曲がっているような気がする。そして、その背中はやけに細っそりとしていて、張りを失くしたように見える。この三年間がその背中に凝縮しているようで俊太郎は心が痛んだ。ただ今年は違う。重圧を背負ってきた妻の背中は、今年は安堵の為に力が抜けているのかもしれない。佳子は洗い終えて、食器乾燥機のスイッチを入れた。そして、黒いタオル地のエプロンを外しながら俊太郎の前に座った。
佳子が座るのを待っていたかのように、ドアが開いた。そして、「書類来たよ」健一がそう言いながら白い封筒を持って入って来た。
「来たか」俊太郎が満面の笑みを浮べた。
「やっと来たね。これで一安心だね」佳子が嬉しそうに言った。「遅いからヒヤヒヤしたわ」
「合格発表を見たじゃないか」健一が言った。
「でも、やっぱりインターネットだけでは安心出来ん。間違ってたかもしれんからね」そう言って俊太郎は笑った。
「そんなことがあったら大事さ」
「とにかく、おめでとう」佳子はそう言って、健一の両手を握り締めた。
健一が照れ臭そうに笑った。
佳子と俊太郎が書類を見始めると、健一は、「部屋で勉強するから」と言い残して、部屋に戻った。
佳子はそんな健一の背中を黙って目で追った。不満だった。合格しているのは分かっているが、それでも合格通知の現物を見ながら、もっともっと嬉しそうにしている健一の顔を見たかったし、三人で手を取り合って喜びたかったのだ。だが、健一は冷静過ぎる。醒めていると言ってもいい程の冷静さだ。佳子にはそれが物足りなかった。だが、そんな思いを別にしても、やはり嬉しさが先立つ。この三年間、待ちに待った瞬間がやっと来た。そう思うと、弾けそうな喜びを禁じ得なかった。本命の京大の受験が残っているとはいえ、もうどうでもいいような気さえしてくる。「やっと解放されますね」佳子がぽつんと言った。
「ああ」俊太郎はそう言って、煙草に火を付けた。紫煙が緩やかに流れた。俊太郎は紫煙を目で追いながら、ふうっと小さな溜息を付いた。
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