蒼い雨に濡れながら

(九)

健一はポツンと机の前に座っている。電気を消した暗い部屋の中で、窓を開け放ったままボンヤリと外を見ている。暗い部屋の中で身動きもせずに一点を凝視している健一の姿は、まるで闇に溶け込んだ彫像のように見える。こうしていると言葉に表せない寂寥感がある。今自分がこうしていることの虚しさがある。その空虚な孤独感は健一に綿のように絡みつき、健一の心を寒々と冷やしていた。健一はその孤独感の中で、自分というものの存在が、闇の中に飲み込まれていくような喪失感を感じていた。確かに自分は存在している。健一という人間は此処にいるのである。だが、その実感がない。窓の外には庭木の黒いシルエットが見えている。その向うには美樹の家がひっそりと眠っている。物音一つしない荒涼とした静けさである。深い夜の空に幾つかの星が瞬(またた)いている。全ての音が吸いとられ、全ての光が溶け込んでいるような夜空に光る星は、健一の心を闇に誘う道標であった。それが導くものは孤独という闇である。哀しさという闇である。浪人と名づけられた闇である。その闇は、健一がもがけばもがく程、蟻地獄のように健一を飲み込んだ。冷たい闇だ。健一は逃れようとしてもがいた。自分を否定するものから逃れようとして、もがいた。だが、もがけばもがく程自分という存在は闇に同化して、健一という希薄な存在を更に希薄化するのである。まるで健一というものの存在を否定するかのように。
だが、もうすぐ終わる。もうすぐ全てから解放されるのだ。
だが、そう思う一方で悪魔が囁く。落ちたらどうするのさ。あんた、京大に落ちたら、どうするのさ。ニタニタと嗤いながら、そう囁く。これまでの三年間は何なのさ。現役と同じじゃないか。三年間無駄にしただけ。それで納得出来るのかい。
出来るさ。三年間頑張った結果がそうなら、それが全てなのだろうよ。
それでいいのかい?そう言ってニタニタと嗤った。
ぼんやりと夜を見ていた健一だが、ふと思い付いたように、引き出しを開けた。ポケットにねじ込まれでもしていたかのように、くしゃくしゃに潰れたハイライトの袋が入っていた。一本だけ残っていた皺の寄った煙草を丁寧に伸ばす。空になったパッケージは力一杯握り潰して捨てた。健一は大きく煙を吸い込んだ。ひさしぶりの煙草に少し咽(むせ)た。思わず苦笑いが浮かぶ。
何時の間に煙草なんか覚えたんだろうね。夏休みに帰省した和也が吸っていたのを好奇心で貰った。煙たいだけだったのに、何時の間にか、親に隠れて時々吸うようになってしまった。こんなことしてるから、落ちるんだよ。
健一は夜空にふうっと大きく煙を吹きかけた。何処までも暗く光のない世界だと思っていたのに、白い煙が闇の中を流れて行くのが見えた。煙はゆっくりと靡(なび)きながら夜を渡っている。煙が薄く消えそうになると、健一はもう一度その煙の後を追うように新しい煙を吹きかけた。健一が強く煙草を吸うと目の前の小さな赤い火がぽっと強く灯る。しかし火はすぐに一瞬の輝きを失った。
俺は案外この生活が気に入っているんじゃないのか。浪人する大儀を口にし、自分だけの理想を並べたて、そして、その為に現在の辛い状況に耐えに、立ち向かっている振りをしながら、内実は案外のうのうと現実に浸り切っているだけの話ではないのか。辛さと哀しさの裏側には舌を出した安逸な怠惰が息を潜めているのではないのか。それが、だらだらと続く俺の浪人生活の本質なのではないのか。
だから何なのさ。もうどうでもいい。とにかくもうお終いにしよう。もう、いいんだって。立命だろうが、京大だろうが、もうどうでもいいや。もう終わりだ。とにかく、もう終わりだ。
健一はもう一度胸一杯に煙草の煙を吸い込んで大きく吐き出した。
煙草と同じだよ。ちょっとしたきっかけがとんでもない惰性を作り出してしまった。ただそれだけのことさ。
健一が吐き出した白い煙の固まりが、勢いよく夜空に広がった。健一は次に小さな煙の輪を幾つも幾つも夜空に放った。大きな煙の固まりを追うように小さな輪が一列に並んで飛んで行く。大きな煙の固まりが十字架のように拡散して形を変えた。
そう。結局は俺の浪人生活なんて惰性なんだ。ただそれだけのことに過ぎないんだ。
健一は、その十字架の上に、青春という文字が書かれているような気がした。それを追う小さな煙の一つ一つには、友情とか期待とか希望とかいう文字が書かれている違いない。その小さな煙達は輪投げの輪のように一つ一つが十字架にぶら下がるだろう。ぶら下がった希望とか友情という文字の重さに耐え兼ねた時、十字架は我が身が背負った重さを噛み締めながら、自ら崩壊していくのだ。その時、聞こえるものは断末魔の悲鳴なのだろうか。それとも声を殺した忍び泣きなのだろうか。それとも搾り出すような哄笑なのだろうか。そして、その時に俺の表情に浮かぶものはひねた薄笑いなのだろうか。諦念を腹一杯含んだ苦笑いなのだろうか。
もういいんじゃないのか。そんな声が聞こえる。健ちゃん、もういいさ。自分でも、飽き飽きしているんだろう?本当のことを言ったら?そんな声がする。
素直になりなよ。そう、はっきりと言いなよ。
それでいいのか?本当に、それがアンタの本心なのか?
健一は小さく頭を振った。そして、もう一度大きく煙を吐き出した。そして、胸が痛くなる程深く煙を吸い込んで、息が切れる程全てを吐き出した。長くなった灰が折れて闇に吸い込まれて消えた。
「馬鹿じゃないの」突然美樹の言葉が健一の脳裏を過(よぎ)った。そして、美樹はにっこりと笑った。毀れるような清楚な笑顔を浮べながら、「馬鹿じゃないの」ともう一度言った。
健一は思わず煙草をそのまま握り潰した。掌の肉が焼ける嫌な匂いがした。脳天を突き破るような激痛があった。あんたはやっぱり馬鹿だよ。そう思った時、健一は独(ひと)り笑った。
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