蒼い雨に濡れながら

(二)

「健ちゃん、何故入った大学に行こうとしないんだろう?」和也が言った。「俺には分からない。本番を控えた大事な時期に、どうしてそんなことを言い出しているんだろう。京大がだめなら、立命館に行く。そう腹を決めて、余計なことを考えずにやるべきだよ。そして、だめなら、立命館に行けばいいじゃないか」そう言いながら美樹がお土産に買ってきたドーナツを頬ばった。横で順子が小さく頷いている。和也は、ドーナツの半分程を一口で口に入れた。もぐもぐと口を動かしながら、「やっぱり分からねえ」とくぐもった声でもう一時言った。

美樹は今朝七時四十九分諫早発のかもめ号で福岡を訪れた。親友の順子と会う為である。美樹が遊びに来るというので和也も順子の部屋に遊びに来ている。博多駅でかもめ号を降りて、箱崎駅まで電車に乗った。順子の部屋は箱崎駅前の八階建てのマンションの三階にある。何度も遊びに来たことがあるので迷いようもない。マンションに着くと、美樹はインターフォンで順子を呼んだ。チャイムが鳴ると、順子は弾けるようにインターフォンに走った。黒いボタンを押しながら、「美樹です」と言っている美樹の姿が、順子にはひどく懐かしく思える。「いらっしゃい。今開けるからね」そう言う順子の声が弾んでいる。
美樹はその屈託のない明るい順子の声に、一抹の羨ましさを感じた。
1DK部屋は相変わらず綺麗に片付けられている。どちらかと言えば片付けが苦手な美樹は、この部屋に来ると何時も感心して部屋全体を眺め直すのが恒例になってしまった。
「久しぶりね」順子はそう言って笑顔を見せた。「元気だった?」
「うん」美樹が頷いた。
「俺も元気はあったけど、空元気。単位を落しそうで、やばかったじぇい」と和也が笑った。
「そうでもなかったよ。空元気どころか顔が引き攣(つ)っていたもの」順子がそう言って笑った。
美樹はお土産のドーナツを順子に渡した。「何がいいか迷ったんだけど、結局これになっちゃった。此処に来るのに、おこしなんか買って来てもしょうがないしね」
「ありがとう。諫早駅のミスドウ?」
「そうだよ。発車まで時間があったから入ったら、結局お土産がそれになっちゃった」
「昔は駅に行ったら必ず立ち寄ってたよね。懐かしいな」順子は嬉しそうに言った。
「ミスドウなんて何処にでもあるじゃないか」そう言いながら和也が箱を覗き込んだ。
「諫早駅にあるミスドゥで買って来てくれたから価値があるんじゃないの」順子がデリカシーのない奴だとでも言いたげに和也を見た。
三人はテーブル代わりの炬燵の前に座った。炬燵布団は外されている。
「皿、いらないよね」順子が言った。
「いいよ。いいよ。摘まんで食べるから」美樹が言った。
和也は、「どれでもいいのかな?俺少し腹が減っているんだけどな」と言いながら箱の中を物色している。
順子は、ペットボトルのジュースを注ぎ分けている。
「僕はコーラが残っているからいいよ」と和也が言った。
「元気だった?」美樹が言った。
「うん。元気、元気」順子が笑顔を見せた。「福岡に来るのは随分とお久しぶりじゃないの?諫早には後期が済んだら直ぐに帰ってたの?新幹線で帰るなら、寄るはずだけどなと思って待ってたんだけど」
「いや。ちょっとだけ向うでバイトしてた。家に帰る前に大阪にいる親戚の家に寄ったので、伊丹から飛行機で帰ってきた」美樹は嘘を付いた。
「うん、うん」と和也が訳もなく、したり顔で頷いている。
「やっぱり遠いね。京都は。私は特急で一時間半しか掛からないから、帰ろうと思えば何時でも帰れるけど、美樹はそうはいかないものね。行き来だけでも大変よね。でも帰って来たらお母さんも安心したでしょう?」
「そうそう。私が帰って来てから、くっ付いて回って喋るのよ」
「そんなものだって。私が帰ってもそうだもん」
和也は時々話しに入りながら、二人の話を聞いていた。そして、話題が健一のことに移った時、「健ちゃん、何故入った大学に行こうとしないんだろう?」と皆が疑問に思っていることをストレートに口にしたのだ。
和也がそう言った時、三人の間に、ふっと沈黙が落ちた。和也は黙ってドーナツを頬張っている。順子はジュースを手にした。
「そのことで直接皆の意見を聞きたかったの。電話でもちょっと話したけど」美樹は今日の目的を素直に言った。
美樹がそう言うと、和也と順子は顔を見合わせた。お互いの心を探るようなもやもやとした思いを素直に口に出来る。二人の顔がそう言っている。
「順子から話を聞いて、美樹ちゃんの心配が痛いほど感じられて。正直に言って、僕らも心を痛めているんだよ。時間が経ち過ぎているから」和也が言った。「本当に何考えているんだろう。あいつは」
美樹だけでなく、順子も和也も二人とも健一のことを気にしている。それどころか、変な話だとは思うのだが、自分達が第一志望校にストレートに合格したことで、健一に対して理不尽な後ろめたさを感じている。だから、三人とも健一が一日も早く大学生になって、自分達と同じステージに立ってくれることを願っている。
「第一志望校にこだわりたい気持ちは分からないでもないけど、やはり許されるのは一、二年じゃないのかな?」順子が言った。「受験した大学が全滅なら仕方ないと思うよ。でも健ちゃんは違う。現役の時も私大には入ったけど行かなかったよね。もう一度やるなんてどうかしてると私は思う。何の為の滑り止めなのよ。初めから行く気がないのなら受けなきゃいいんだ。健ちゃんのせいで泣いている人だっているんだよ。考えようによってはその人に失礼だよ」
「私もそう思う。だから何度も言ったのよ。でも自分の意地を通すの。何故彼がそんなにこだわるのか私には分からない。聞く耳を持たないのよ。私はもうどうしていいのか分からない」
そう言う美樹の口調は意外にも穏やかだった。無理に感情を押し殺しているというより、微笑を浮かべながら、むしろ淡々と自分の思いを口にしているように見える。しかし順子には、その抑えた口調の裏にある、振り絞るような美樹の悲鳴が見え隠れする気がしてならなかった。
「ご両親は?」和也が尋ねた。
「知らないわ」美樹が言った。「でも常識的に分かるでしょ。真奈美ちゃんもいることだし、建ちゃんの我儘(わがまま)を容認しているはずはないと思うんだけど」
「それはそうだろうね。しつこいようだけど、どうして行かないのかな?もういい加減にすればいいのに。僕には理解出来ない」和也はそう言いながら、あお向けにひっくり返った。そして、「あいつ馬鹿なんだよ」と独り言のように呟いた。
「僕達はストレートで入ったから、あいつの苦しみは本質的には分からない。でも話をしてくれれば、皆で少しずつ重荷を分かち合うことは出来るはずなんだ。親友だろう?俺達。少なくとも俺はそう思ってきた。
自分の気持ちや悩みを素直に口にするだけでも、彼の気持ちは楽になれるはずなんだ。
変な話だけど、僕は自分がストレートに合格したことで、健ちゃんに対してどこか後ろめたい気持ちを持っているんだ。何かしら今の彼の立場が気の毒に思えて、言いたいことが言えなくなっている。それが以前のように何でも話せる間柄の妨げになってしまっている。僕は高校時代より、もっともっとあいつの力になりたいと思っているんだ。でも、逆に彼は年々僕達から遠ざかっているように思えてならない。僕らが彼をスポイルしているんじゃない。あいつは自分で自分をスポイルしているんだ。友情というものから。だから、僕らが何とかして力になりたいと思っても出来ないんだ。そう思うだろう?」和也は言った。「浪人しているからといって、何もそんなに自分を卑下したり、追い詰める必要はないんだよ。以前と同じように何でも話してくれたらいいんだ。そうしたら、僕らだってあいつの気晴らし位にはなれるんだ」
美樹は和也が言う通りだと思った。と同時に自分だけが取り残されて行くような焦燥感の中で、自分の殻に閉じ篭(こも)ろうとする健一の気持ちも分からないでもない気もした。自分を取り巻く全ての賽の目が裏目、裏目と出るような強迫観念を、さらりと流していける程人間は強くない。自分だけが、自分だけが、と自分自身への自信喪失と自己嫌悪に苛まれるのは仕方がないことなのかもしれない。そして、自分を取り巻く全てのものが、そんな自分をスポイルしているように錯覚するのだろう。しかし、実際は逆なのだ。自分が自分をそうしているだけで、そんな時にこそ、自分から胸襟(きょうきん)を開くべきなのだ。そして、自分だけの殻の中で考えるのではなく、周りの人の意見を聞くべきのだ。そうすれば健一も違った結論を導き出すのかもしれない。
今の自分を考えてみればよく分かる。受験勉強をしている時には、ここしかないと思っていた。自分が目指している大学だけが、大学と名の付くものの代名詞であり、全てであるかのように感じられていたが、実際にその大学に入学してみたらどうだろう?確かに誰も知らないような名前を言うよりは、世間に知られている名前を言う方が優越感を覚えたりもするが、だからと言ってそれが何なのだろう。名前を聞いた人は、「それはそれは。立派な大学に」とその場では言うが、次の瞬間にはそんな名前など、もうどうでもいいことなのだ。自分に残った優越感などその一瞬を過ぎれば何の意味も持ちはしない。その大学の中にいる自分だってそうだ。自分が自分の大学を本当にそれ程意識しているかと言えばそうでもないだろう。自分が本当に自分の大学を意識するのは、他人と話す時の、そのほんの一瞬だけではないのか?
社会に出たところで同じことだ。東大だろうと京大だろうと、出身大学だけで通用する程甘い世界は何処にもないのだ。ならば固執すべきはどんな名前の大学に入るかではなくて、其処で自分が何をしようとしているのか、そして、何をするかなのだ。
「あんたが固執しているものは、ひょっとしたら、とんでもなく的外れなものなのかもしれないんだよ」とそう言ってあげられる論拠が欲しいと美樹は思った。「だからもう止めなさいよ」と言える何かをだ。
「美樹は寂しくないの?」突然順子にそう言われて美樹は返答に窮した。何かを言おうとして、だが、返す言葉がなかったのだ。
「そうなのよ。もう寂しくて、寂しくて堪(たま)らないのよ。嫌で嫌でしょうがないのよ」とそう言えたらどんなにいいだろうと美樹は思った。だが、美樹は黙った。和也も何も言わない。三人の間に再び短い沈黙が流れた。
美樹はジュースを飲んだ。その時美樹は目の前の二人を「羨ましい」と、はっきりと意識した。自分が親友と思っている人間との会話の中に居て、自分の中に孤独が頭をもたげているのに気が付いた。私は何をしに此処に、のこのことやって来たのだろう。健一のことを二人に話したかった。そして、自分の胸のうちを聞いて欲しかった。そんな気持ちだったのに、何時の間にか美樹は、自分が自分の殻から出ようとしなくなっているのに気が付いた。美樹はそんな自分が健一に似ていることに気付いてはいない。
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