蒼い雨に濡れながら
目の前には和也と美樹がいる。それなのに健一はいない。「寂しくないはずはないでしょう」自分がそう口にしそうになった時、美樹は自分がまた軽やかなステップを踏みそうなことに気が付いた。真白に白粉(おしろい)を塗った頬に赤く大きな円を描いて、そして、ダンゴ鼻を付けた私は、とんがり帽子を右手で振りながら、こぼれるような愛想笑いを振りまくのだ。「どうだい、私にお似合いだろう」そう言って笑うのだ。
美樹は楽しかった三人の時間がすでに消滅しているのを知った。此処にあるものは暖めたはずの旧交の残滓だ。多分もう暫くすると「じゃね」と言いながら和也が帰るだろう。そして、その後に自分がこの部屋を出るのだ。美樹はそんな別れの場面を思い浮かべた。その時順子はきっと、「頑張ってね」と言うだろう。私は小さく頷いて沈黙の微笑で答えるだろう。
美樹はそんな場面を思い描いた時、自分の馬鹿さ加減に気が付いて愕然とした。何を言っているんだい。この部屋を最初に出て行くべきは自分ではないか。
美樹は言葉では言い表せない程の寂寥感に襲われた。哀しかった。それは冷たい霧のように美樹の心に広がっていった。この霧がいっそのこと、この身を凍り付かせる程の鋭さを持っていたらよかったのだ。凍り付いた作り笑いが氷の破片となって砕け散るように、この身も氷の破片となって砕け散ればいいのだ。なのに、その冷たい霧はじんわりと美樹の全身にまといつき、まるで死人の手のような生ぬるい冷たさで美樹を覆っていくのだ。「健ちゃん」美樹は心の中で健一の名を呼んだ。その時、美樹は自分がもう二度と、「どうだい、私にお似合いだろう」、などとピエロのまねをして愛想笑いを振りまくことなど出来ないことを知った。

「送って行かなくて良かったかな?」美樹が部屋を出ると、和也がぽつんと言った。彼はそう言いながら窓を開けた。その姿は見えない美樹の後姿を見送ろうとでもしているように、順子には思えた。窓から見える空は何処までも柔らかな空だ。穏やかな光が空気を輝かせていた。
「煙草吸ってもいいかな?」和也はそう言って、空になったコーラの缶を取ると窓辺に座った。彼の吐き出した白い煙が、輝く空をゆっくりと流れて行く。
喧嘩をしたんじゃない。嫌な話をしたんじゃない。しかし、今此処に残っているのは引きずったような後味の悪さだ。心を絞り尽くしたような空しさだ。和也は白い煙を見ながらそう思った。俺は美樹の心の哀しさに気が付いていた。彼女が心で泣いているのを知っていた。でも何をどうしてやれたというのだろう。順子だってそうだ。きっと同じ思いだったはずだ。俺達は美樹の哀しさを癒す術を知らなかった。そしてそれは逆に俺達の幸せを突き刺した。俺は逃げたんじゃない。何とかしてやりたくとも、何をどうしていいのか分からないのだ。本当に分からないんだよ。彼女の哀しさをひしひしと感じながら、でも何もしてやれないこと。何も出来ないこと。その悔恨の思いが和也と順子に、哀しさの淵に引きずり込むような後味の悪さを残していた。
「順子、あの時もそうだったね」和也が言った。「あの時もそうだった。あいつは、合格発表を見に行った僕を諫早駅まで迎えに来てくれた。君も横にいたよね。汽車を降りて来た僕に、「お帰り。合格おめでとう。よかったね」とあいつはそう言った。「電話もらったけど、直接一言言いたくてさ」それだけを言うと、あいつは踵(きびす)を返して雨の中をバスターミナルの方へ歩いて行った。呼び止めてもあいつは黙って歩いて行った。雨粒が蒼いイルミネーションの光を反射して蒼白く輝いていた。「待てよ」と言った僕は、自分が何か見えないものの後姿を掴もうとして、もがいているように思えた。必死に手を伸ばすのだけれど、それは無表情に僕の手をすり抜けて行く。あいつは横断橋の前で半身を捻(ひね)るように振り返って哀しそうな目で僕を見た。そして、軽く右手を上げて、また黙って歩いて行った。肩を落として夕闇に消えて行くあいつの後姿を、僕はどうしても忘れられない。その姿は健ちゃんに違いないんだ。それは一から十まで健ちゃんなんだよ。でも僕らと一緒にいた時の健ちゃんじゃない」
順子は頷いた。しかし、「少し違う」と言った。「和也が言っていることは分かる。でも何か少し違うの」順子はそう言った。
「私が手を差し伸べようとしたものも俯いているの。寂しそうに肩を落として、とぼとぼと歩いているの。私はそれに触れることすら出来なかった。手を伸ばしても、伸ばしても私の手は彼に届かない。彼は私に背を向け、必死に伸ばしている私の手に気付いてすらいないように、ただ俯いて肩を落として歩いているのよ。私の存在は彼の眼中にはなかった。あれだけ一緒に高校生活をエンジョイしたのに。あの時の彼には私はいなかった」
順子の最後の言葉は、まるで順子の悲鳴のように和也には聞こえた。
「友情って何なの。私は必死で手を伸ばそうとしたんだ。なのに、健ちゃんはまるで気付かずに独りで歩いて行った。どうしてやれるというのだろう。私に何が出来るというのだろう」
「さよなら」そう言って玄関を出た美樹の後姿が順子の瞳の奥に焼き付いていた。笑顔でそう言ったけど背中が泣いていた。「さよなら」私はそう言った。それ以外にどんな言葉があったというのだろう。それ以外に私に何が言えただろうか。
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