蒼い雨に濡れながら

(三)

順子達と別れた後、美樹は近くの商店街に行ってみた。商店街の中ほどにある電気店の前では、初老の店主が除湿機のポップを飾り付けている。店舗の隣に駐車場が作られていて、そこに箱バンが駐車してある。車と壁の狭いスペースに、下取りした冷蔵庫が、三、四個無造作に置かれている。隣の本屋のドアは閉まったままだ。店内は薄暗く客の気配はない。店自体が生気に乏しく、店頭に並べられた雑誌も手持ち無沙汰に通りを眺めているだけだ。
美樹は小さなケーキ店の前で立ち止まった。店の正面に立つと自動ドアがサッと開いた。美樹は慌てて左端に身を避(よ)けた。もみの木の巨大な植木鉢が飾ってある。美樹は其処から薄茶色のショーウィンドー越しに店内を覗き込んだ。大好きなイチゴショートがすぐに目に付いた。健一が好きなチーズケーキも並んでいる。美樹は点検するように一通りショーケースの中身を眺めてから店内に入った。美樹が入って行くと、店内から胡散臭そうに美樹の様子を伺っていた店員が、安心したように笑顔を見せた。
美樹は、イチゴショートとチーズケーキを二個ずつ買った。店員はドライアイスを入れる時に、「お召し上がりまでどれ位かかりますか?」と聞いてくれた。
長い間―――そう出掛かったが、「二時間程。多めに頂けますか?」と美樹は言った。
店員は「はい」と頷いて笑顔を見せた。
美樹はその箱を揺らさないようにそっと持って店を出た。
美樹はボンヤリと通りを歩いている。どこか現実感に乏しかった。今自分がこうして駅近くの商店街を歩いていること。ケーキを買ったこと。そのケーキが入った白い箱を持っていること。そうした自分の行動の一つ一つが、美樹の現実の感覚から遊離していて、全てのことがふわふわと雲の上に浮いているように危うく感じられた。それだけではなく、自分の目の前で展開されている商店街の営みすら、遮光フィルターを通してでもいるかのようにボンヤリとしているのだ。
通りの隅に一匹の犬が人目を避けるように蹲(うずくま)っている。犬は上目遣いに近づく人間を見ている。美樹の目線はそんな状況を捉えてはいる。しかし、その焦点は犬の上を行ったり来たりしながら、宙を漂っているのだ。
「そういえば、このチーズケーキは誰が食べるのだろう?チーズケーキ?そうだよ。健ちゃんに買ったんだ」美樹はにっこりと微笑んだ。だが、その笑みが美樹の心に暖かさをもたらすことはない。こうして夢の中を歩いてでもいるかのような今の美樹に、一つだけ明確なものがある。それは寂寥感である。心を冷え冷えと凍らせる寂しさである。
「健ちゃん」美樹は健一の名を呼んだ。そう口にした時、美樹は目頭が熱くなるのを感じた。美樹は、この柔らかな雲のような白昼夢の中から、健一がひょっこりと姿を現すような気がした。通りの向うから両手を広げて健一が掛けてくる。そんな気がしてならないのだ。だが、そんなことはあるはずもない。寂しかった。美樹は哀しみのベールを纏(まと)いながら一粒の涙を零(こぼ)した。その一粒の涙はゆっくりと美樹の頬を伝い、美樹が立っている雲の上に落ちた。そして、それは小さな涙の穴を穿(うが)った。鋭く、暗く、そして何処までも深い穴だ。その屍の眼孔のような穴から、暗い闇が煙のようにゆっくりと湧き上がって来る。それは徐々に純白の雲を覆い、灰色に変えて行く。そして何時しか柔らかな雲のような白昼夢は、灰色の陰りの中に飲み込まれて消えた。その後には、灰色の虚空が口を開ける。美樹にはその中から健一がゆっくりと歩いて来る予感があった。いや、美樹の涙に潤んだ瞳には、その姿が見えている。健一は美樹に向かってゆっくりと歩いて来る。健一が一歩一歩歩みを進めるたびに長髪が緩やかに揺れた。彼は一歩一歩確かに美樹に近づいて来る。美樹は胸の高まりを抑えることが出来ない。「健ちゃん」そう叫び狂いたい程に、愛おしさが込み上げてくる。健一がゆっくりと右手を上げ、白い歯を見せる。美樹はそんな彼に向かって、一目散に走り出した。全身が喜びに震え、走り出した足は羽根のように雲を蹴った。そして、美樹は健一の胸の中に飛び込んだ。優しい彼の両手が美樹をしっかりと包み込む。美樹は優しい彼の腕の中で幼子のような天使の微笑を浮かべて、しっかりと頬を健一の胸に押し付けた。
「ワン!」突然犬が吠えた。牙を剥き憎悪に燃えた眼で美樹を見据えながら、激しく美樹に吠え掛かった。
現実に引き戻された美樹の表情から笑みが消えた。そして、再び暗い憂愁が彼女を覆った。彼女は犬を正面から見据えた。牙を剥いた犬がひるんだ。そして、怯えたように後ずさった。
「私は、あなたの横を通っただけじゃないの?私が何をしたというの?なのに、どうして吠えるの?そんなに憎らしい顔をして」
寂しかった。そして、哀しかった。
「私が何をしたというの?」
私は本当に彼を愛しているのだろうか?私は一体何の為に彼を待っているのだろう?どうして私は彼を待たなくてはいけないのだろう?順子も和也も今という時間を謳歌している。何故私がそうしてはいけないのだろう?何故私にはそう出来ないのだろうか?誰か教えて。
美樹は再び灰色の雲の上を歩いている。美樹は心の中の健一に、すがるような目を向けた。「どうして?」その目は必死に健一にそう問い掛けていた。美樹の中の健一が、じっと美樹を見つめ返す。彼は何も言わない。ただ哀しそうな目が、じっと美樹を見つめた。彼の顔がふいに、にっこりと微笑んだ。そして、それを最後に彼の顔の輪郭は少しずつ、少しずつ、ぼやけていった。
闇の中に溶け込んでいくように、彼の輪郭は次第に明確さを失くし、陽炎(かげろう)のように揺らめきながら闇と一体化していく。闇の中消えた健一の笑顔の残滓が再び闇の中で収斂し始めた。音もなく、凍り付いた幽鬼のような彼の顔が、ぼんやりと闇に浮かぶ。表情もなく、薄く目を瞑り、青白い光を発しながら虚空に浮かぶ健一の顔が、次第にその輪郭の明確さを増していく。その下部は鋭角に尖り始め、鋭く切れ上がっていった。その顔に現れた真っ赤な口が横一文字に裂ける。哀しみを湛えていた目が細く吊り上っていく。そして、その目は哀しみを捨てて憎悪に燃え始めた。赤く裂け、捲(ま)くれ上がった唇からは、今にも怨念の呻き声が洩れんとしていた。
美樹に吠え掛かった犬の表情が再び険しくなった。人間の姿を見ると、こそこそと尻尾を巻いていたはずの犬が、挑むように美樹を睨みつけ、「ウウッ」と捲くれ上がった唇から犬歯を剥き出しにして、美樹に牙を剥いている。
美樹はそんな犬をまたじっと見つめた。そして、一歩前に出た。犬が、一歩二歩後ずさる。美樹に恐怖はなかった。ただ哀しかった。美樹はじっと犬を見つめた。鬼畜のように表情を変えた健一の顔が、目の前の犬と重なった。犬が更に後ずさる。そうしながら牙を剥き、唸り声を上げた。
美樹は目の前の犬に向かって、にっこりと微笑みかけた。犬が牙を剥きながらも、脅えたように美樹を見た。
美樹の中に一本の大木が立っている。見る者をその存在感で圧倒しつつも、その存在感が持つ包容力で全てを優しく包み込む大樹である。幼稚園の遠足だ。大楠の根を滑り降りた健ちゃんは勢い余って地面に落ちた。私は顔に付いた土を拭くように、健ちゃんにハンカチを差し出した。泣きべそをかいた彼の顔が笑った。そして、「ホイ」ハンカチが宙を舞って私の手に帰って来た。ハンカチの上でドラミちゃんが笑っている。
美樹の記憶が忘却の海を漂う中で、そのワンシーンは、しっかりと美樹の記憶に焼き付いている。健ちゃんは私にハンカチを返した後、向うへ走って行った。あの子は大楠の向うに走って行った。そう、健ちゃんは私を置いて走って行った。美樹の中で、鮮明な彩(いろどり)を放つはずのワンシーンが蒼く変質していくような気がした。
何時もそうなんだ。美樹は思った。昔から何時もそうなんだ。あの人は私の気持ちをちっとも分かっていない。それなのに私は待っている。私は何時も待っている。私って何?ワタシってナニ?私は馬鹿?ワタシはバカ?
美樹はもう一度犬を見た。美樹の目が一瞬憎悪に激しく燃え上がった。
人を愛するって何だろう?
人を信じるって何だろう?
余りに当然なんだよ。余りに当たり前過ぎるんだよ。美樹には健ちゃんがいる。そうなんだ。美樹には健ちゃんがいる。そうなんだ。ミキにはケンチャンがいる。そうなんだよ。
でも、本当にそうなの?でも、それは、本当なの?本当にそうなの?悲鳴のような叫びが聞こえる。心を切り裂くような呟きが聞こえる。何故、私だけが何時までも待たなくちゃいけないの?順子と何が違うの?
美樹は、後ずさる犬を尻目に商店街を抜け、駅の構内に入った。そして、切符の自動販売機の方へ歩いて行った。美樹はじっと路線案内を見つめた。美樹は明確な目的があってそうしているのではない。行き先は博多駅に決まっているのだ。ただ駅に着いて、すぐに切符を買ってホームに向かうのが嫌だっただけだ。美樹はベンチに座った。プラスチィック製の青いベンチはひんやりと冷たい。構内には柔らかな日差しが差し込んでいる。美樹はベンチに座ってぼんやりと入り口を見ていた。ぽつん、ぽつんと人が入って来るが、通勤時のせわしさはなく、一様に急ぐ様子もなく、のんびりと改札口に向かって歩いて行く。キオスクの女性が、所在無げに美樹のほうを見ていた。
美樹の中にサンドイッチマンがいる。二度と現れないと思った姿が、再び顔を出している。白いほっぺに赤い日の丸書いて、黒い燕尾服にとんがり帽子。黒く縁取った目と真っ赤な口で、愛想笑いをしながら、プラカードを持っている。プラカードには「見世物あります」と書いてある。どうだい、私にお似合いだろう!ピエロのサンドイッチマンが言った。そして、にやりと笑った。私はピエロのサンドイッチマンさ。サァ、いらっしゃい。いらっしゃい。寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。何年も浪人している馬鹿な男がいるよ。そして、そんな男をじっと待っている馬鹿な女がいるよ。サァ、寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。皆で笑って頂戴な。
美樹はふいに両手を上げて大きく背伸びをした。そして、入り口を見た。入り口付近に佇んでいた犬が、美樹が歩いて来た轍を辿るように、とぼとぼと引き返して行った。
「あんたも私と同じだね」美樹は犬に言った。
犬は街路樹の根元にだらしなく寝そべった。そのどんよりとした目が一瞬美樹を見た。しかし、その目には先程の挑むような光はなく、すでに美樹から興味を失くしていた。
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