蒼い雨に濡れながら

(四)

「たまには外の空気を吸いたい」健一から電話が掛かってきた。「一時間だけよ。大事な時なんだから」美樹はそう念を押して、付き合うことにした。二人は健一のバイクで白木峰高原に来た。諫早湾を一望できる木製のベンチに腰を下ろしている二人を、柔らかな日差しが包んでいる。目の前に広がる青い空の中を白い雲がゆっくりと流れ、その雲に包まれるようにそびえる雲仙岳が目の前にあった。眼下に雄大なバノラマを見せている諫早湾は、白い絵の具を含ませた筆でさっと撫でたように、薄っすらと煙っている。湾を仕切って干拓農地を作り出している7㎞にも及ぶ巨大な堤防が、周りの穏やかな風景に奇異な印象を与えていた。
美樹はそんな諫早湾をじっと見ている。そして、前を向いたまま、
「あなたの遠い空には何があるの?」と呟いた。「貴方の中には何があるの?」
健一が美樹を見た。絹のように細やか黒髪が風に静かに靡(なび)いている。その美しい横顔を憂いが深く覆っている。健一はその横顔をじっと見つめた。その横顔を覆っている憂いが、健一に鈍い痛みをもたらした。それはこれまで健一が余り見たことがない美樹の表情である。黒く輝いているはずの瞳が憂いを湛(たた)え、何かを思い詰めたように一点を凝視している。
また繰り返そうとしている。俺は性懲りもなく、また同じ轍を踏もうとしている。馬鹿じゃないのか。そんな声が聞こえる。見てごらん、美樹が哀しそうな顔をしているよ。
美樹が凝視している諫早湾には、御書院の森が浮かんでいた。そこでは箒を手にした諫高生が、一本の大木の下で、白い花を掃いている。冗談を言っては笑いさざめいている生徒達を、巨大なヒトツバタゴの木がじっと見下ろしている。彼女達は庭に舞った白い花を、そのヒトツバタゴの根元に集めた。晩春に舞う雪のような純白の花が、風に煽られて数枚庭に散った。「もう、また散らかった」と文句を言いながら、順子がそれを掃いた。その横には和也がいる。笑いながら順子を見ている。美樹もいる。智子もいる。健一もいる。だが健一は、箒を手にしたまま一人だけ後ろを向いている。そんな健一の肩に、一枚の純白の花がぽつんと舞い降りた。
「建ちゃん、ナンジャモンジャの木を覚えている?御所院にあったでしょう」
「ヒトツバタゴだろう?ナンジャモンジャの木って?」
「そう。白い花が咲いた。毎年、春に純白の雪が舞った」
「散った花弁を掃除するのは大変だったけどね」そう言って健一が笑った。
健一も美樹と同じ様に御所院を舞う純白の花吹雪を思い浮かべた。その花吹雪の中を掃除当番の諫高生が笑いさざめきながら、地面に落ちる花弁を小さな山に掃き集めている。「これじゃ、きりがないじゃないか」そうぶつぶつ言いながら笑っている。健一がいる。美樹がいる。順子がいる。和也がいる。健一はそこにいる自分が、俯き加減に皆から目を逸らしているような気がしてならなかった。健一の肩にも花弁が舞い落ちている。醜い。健一は思った。笑顔の渦の中で、一人俯いている自分の姿がどこか醜く見える。何か滑稽に思える。そんなはずはない。そうじゃないんだ。そう否定してみても、記憶の中の諫高でも、何時の間にか一人俯いている健一が居た。
健一は視線を感じて振り向いた。箒を手にしてじっと自分を見つめている美樹と視線が合った。美樹の口がゆっくりと動いた。「健ちゃん」そう動いた。「健ちゃん」
「健ちゃん」そう言う美樹の声が聞こえる。健一は思わず横に座っている美樹を見た。
だが、美樹は黙って前を向いているだけだ。
「空耳か」健一は心の中で呟いた。二人は黙って目の前の諫早湾を見つめた。
「あなたの遠い空には何があるの?」美樹の呟く声がする。
「蒼い雨がある」健一はそう答えた。「その雨の中で自分だけが傘を差している僕がいる。自分だけが濡れないように傘を差して、のうのうと歩いている僕がいる」

「そろそろ帰ろうよ」美樹に促されて健一はベンチを立った。
「そうだね。でも、ここに来ただけで気晴らしになったよ」健一はそう言って、笑顔を作った。だが、正直に言えば、ますます気持ちが重くなっただけだ。健一はこんな状態で、気晴らしなどあるはずもないことを改めて認識した。

「じぁね」そう言ってエンジンを掛けたまま、美樹を自宅の玄関前で下ろすと、健一は直ぐに自分の家に向かって走り出した。美樹はその後姿に小さく手を振った。健一はその姿をミラーで見ていた。家に帰ると、健一はすぐに二階に上がった。何故か足音を殺すように忍び足で階段を上った。ドアをそっと閉めると、健一は窓を開けた。ひんやりとした風が一筋流れて来た。窓からは美樹の家が見える。窓にはカーテンが引かれている。健一はその窓を見つめた。窓から吹き込んだ一瞬の涼風が消えると、不快な暑さが、質感のあるもののように健一に押し寄せた。ペッドにしばらく寝転んでいると、何時の間にか健一は眠ってしまった。

健一は夢を見ていた。
夢の中の健一は擦り切れたベルボトムのジーンズにGジャンを着ている。抜けるように青い空だ。その空からクリスタルの輝きのような光が健一に降り注いでいる。その輝きの中で、ナチュラルウェーブが掛かった健一の髪が風に靡(なび)いている。風が健一の髪を靡かせる都度に、クリスタルの輝きが揺らめいて見える。健一は右手を半分ほどGパンの前ポケットに突っ込んでいる。そして、左手で草色の布製のバックの紐を掴んで、ぞんざいに肩に掛けて、京都御苑の建礼門前大通りを真っ直ぐに歩いている。足元で白い砂利がザッザッと乾いた音を立てた。健一は真っ直ぐに前を見て歩いている。その表情は微かに微笑んでいる。健一の目線の先で、一人の女性が手を振っている。彼女は大きく右手を振りながら、まるで軽やかなステップを踏むかのように小走りに近づいて来る。弾けるような笑顔の中で真っ白い歯が輝いていた。
二人は京都御苑の真ん中で立ち止まった。彼女の息が弾んでいる。その頬はほのかに紅潮していた。健一もそうだ。二人は向かい合ったまま呼吸が静まるのをちょっとだけ待った。
「やぁ」健一はそう言って、にっこりと微笑んだ。美樹が何も言わずにこぼれるような笑顔を見せる。きらきらと輝いている瞳、白く輝いている歯、今にも健一の腕の中に飛び込んで行きそうな喜びの発露。美樹はその全身で健一と会う喜びを表現していた。
小さい時から余りに当然過ぎたお互いの存在。愛を愛だと感じる隙間さえなかったお互いの肯定。その余りに当然過ぎたお互いの存在が、今初めて愛という形に昇華し始めるのを感じる。何も考えることなどなかった。何を案じることもなかった。お互いがお互いの存在を素直に認めればよかったのだ。ただそれだけで、手の中に在った幸せに気が付いたのだ。人を愛すること。それはお互いがお互いの存在を認め合うことなのだ。
健一が美樹を見つめる。そして美樹も健一を見つめ返した。輝くような陽光が二人を包んでいた。不意に健一が周りを素早く見回した。健一の目の届く範囲に人影はない。健一はいきなり美樹の肩を引き寄せた。そして、顔を寄せると、素早く小さなキスをした。美樹が驚いたように一瞬目を見張る。しかし、驚きは直ぐに、はにかむような笑顔に変わった。美樹は弾かれたように健一の腕に自分の腕を絡めた。そして、その右手に頬を寄せた。泉のように溢れ出る暖かい幸せが美樹を満たしている。その幸せは滾々(こんこん)と尽きることなく湧き上がる。「私はこうしたかったのよ」美樹が呟いた。「私はこうしてあなたと腕を組んで御苑を一緒に歩きたかったんだ。御苑でなくても何処でもいい。あなたとこうして京都を歩きたかったんだよ。やっと、やっと、やっと、やっと、夢が叶った。私の夢が、叶った」

健一は自分が泣いているのを感じていた。とめどない涙が溢れている。何もないんだよ。今の僕には何もないんだよ。健一はそう呟きながら両手で顔を覆って泣いていた。美樹が何か大袈裟なことを求めているわけじゃない。あなたと一緒に京都を歩きたい。ただそう言っているだけなのに。僕はたったそれだけのことさえしてやれない?たった、それだけのことさえ、僕は、しない?美樹は、ただ一緒に京都を歩きたいと言っているだけなのに。もう嫌だ。もう嫌なんだよ!健一は自分が大声で叫んだような気がした。大声で喚いたような気がした。だが、茫漠とした静寂が健一を包んでいるだけだ。
嫌?もう嫌?何が?それは、本当の、ことなの?結局、また繰り返そうとしているじゃない。皆の、反対を、押し切って、皆の意見に背を向けて、皆の期待を裏切って、本心では、また繰り返す気でいるじゃない。理由は何?何がそうさせている?自分では分かっているのかい?あんたがしようとしていることが。
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