蒼い雨に濡れながら
結局俺の浪人生活なんて一体何なのだ。肯定したり、否定したり、卑下したり、開き直ったり、様々な感情の起伏の中で、結局は自分が自分である為のアイデンティティさえも失くしかけている。何時までもデラシネのようにふわふわと漂っている。そんな生き様に何の価値があるのだろう。

「あなただけが辛いんじゃない」何時か美樹が言ったことがある。「あなたの周りにいる皆が辛いんだ」彼女はそう言った。その時の美樹の哀しそうな、それでいて刺すような目線を思い出す。そんな彼女に俺は何を返したというのか?与えられ続ける愛。余りに当然過ぎる愛。愛だとは気付かないほどの存在の肯定。結局は全てに甘えているのは自分だ。京都御苑を一緒に歩こうねと美樹が言った。たったそれだけのことなのに。たったそれだけのことなのに、たったそれだけのことすら俺は、拒否しようとしている。屁の突っ張りにもならぬ意地の為に。人の好意の上を土足で歩いているような俺の人生。結局はそうなんだ。そんな俺のどこに生きている価値があるんだろう。
もういいんじゃないのかい?健ちゃん、もういいんじゃないのかい?もう満足しただろう?馬鹿とナルシストのピエロさね、あんたの存在なんて。そして皆をそれに巻き込んで。何時までやるつもりかい?

何時の間にか順子がいる。そして、健一を見ている。健一は自分と自分を見ている順子を3Dの映像でも見ているように眺めていた。
「健ちゃん」順子が健一に呼びかけた。
「健ちゃん」
だが、健一は何も答えない。ただ小さく頭(かぶり)を振ると、順子に背を向けてとぼとぼと歩き出した。健一の後姿は、俯(うつむ)き加減で寂しく肩を落としている。そんな健一の肩を蒼い雨が濡らしている。健一は絹のような細かい雨の中で手にしている傘を差そうとはしなかった。蒼い雨が健一の髪を濡らしている。濡れた前髪がへばり付くように健一の額を覆っている。だが、健一は頬を濡らす雨を拭おうとはしない。頬を伝う雨は健一の涙と同化し、健一を更に蒼く染めた。健一は自分だけの空虚な空間をすすり泣きながら歩いていた。傘を差さずに。
順子は目の前を歩いて行く健一の後姿をじっと見つめた。夕闇の中に消えて行く健一の後姿が雨に濡れて泣いている。「美樹が泣いているよ」順子が叫んだ。「健ちゃん、それでいいの?本当にそれでいいの?美樹が泣いているのよ」だが、その叫びに健一は耳を塞いだ。

白いピエロが踊っている。尖がり帽子に団子鼻を付けて、真っ赤なほっぺに大きく裂けた口。そんなピエロがゲラゲラ笑いながら踊っている。そいつは真っ赤に燃える眼で健一を睨みつけ、捲れ上がった唇から薄黄色に汚れた牙を剥き出しにして、健一に向かって唸り声を上げる。そして、くるりと背を向けると柔和な目線でにっこりと笑った。そしてまた健一の方を振り向くと牙を剥いた。貴様の人生なんて。そう言った。そんな貴様の人生なんて。それは牙を剥き出して呻くように、そう言った。言ってみろ。何の価値があるのだ。どこに価値があるのか。失せろ。それは健一にそう言った。失せろ。貴様なんてこの世から失せろ。
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