蒼い雨に濡れながら

(五)

二月二十七日。昨日京大の入試が終わった。
健一は誰も居ない京都御苑にいる。足を引きずるようにして白い砂利の上を歩いている。歩きながら、健一は笑った。張り裂けるような声のない哄笑に顔を歪めた。健一が大笑いをする都度に、顔中の筋肉は、どす黒く充血して引き攣(つ)り、黄色い歯が剥き出しになる。そして、腹の皮が痛いほど捩(よじ)れた。そして、その都度に、健一の目からは蒼い涙がとめどなく流れた。
今にも崩れそうだった空から、小雪が落ちてきた。はらはらと降り出した雪だが、急に激しさを増し、あっと言う間に御苑を白く覆った。静謐さを湛えて何処までも続く御所の白壁が、雪の薄いベールの中に溶け込んでいった。
ふいに健一の背後から、ざわめきとザッザッという足音が迫って来た。それは、健一の背中を押すように、次第に存在感を増した。その不協和音は、近づくにつれて、耐え難いほどの圧迫感を持って健一に迫って来る。健一は思わず足を速めた。だが、その一群の歩みは意外と速く、直ぐに健一に追い付いた。そして、彼らは健一に一瞥をくれることもなく、その横を通り過ぎた。その老人達の一群は、亡霊の行列のように健一には思えた。無表情な死霊達の行進に思えた。次第に健一から遠ざかる彼らの吐く息が空中で白く凍った。雪が激しさを増した。雪は見る間にその死霊達と御所の白壁を、白いベールで覆い隠した。健一は立ち止まった。そして雪の中に傘も差さずに立ち尽くした。もっと降れ。全てを覆い尽くすまで、もっと降れ。健一は、そう呟きながら、笑った。独りで何時までも笑っていた。これで最後と決めた受験だった。最後だったのだ。だが、またやっちまったよ。健一には、その明確な実感があった。
「終わったよ」健一ははっきりと呟いた。「ジ・エンド」そして、また笑った。
「何時か京都を一緒に歩こうね」そんな言葉が聞こえていた。御苑を歩く砂利の音だけが聞こえていた。

もう俺は自分だけ傘を差すわけにはいかない。もう自分だけ傘を差すわけにはいかないんだよ。雪が激しくなった。白い否妻にも似た激しさで横殴りに降っている。その中に一人の女性の姿があった。ぼんやりと浮かぶような姿が次第にはっきりとしてきた。彼女は恥らうように清楚な微笑を浮かべて健一を見ている。健一もじっとその微笑を見つめた。彼女が微笑む度に狂ったような白い否妻が少しずつ少しずつ穏やかな光の照射に変わっていった。そして、何時しか白い怒りが青い哀しさに変わっていた。その中で、彼女の頬が白く染まっていく。赤いルージュが見える。とんがり帽子が飛んで来る。そして用意が整ったら、きっと彼女は、ドウダイ、ワタシニ、オニアイダロウと微笑むのだ。
「もう、止めてくれ!」呻くような健一の声が聞こえた。「もう、止めてくれ」健一は両手で顔を覆った。
< 30 / 31 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop