デキる女の方程式
(マリア様…河本さんをよろしくお願いします…)
お見送りをした後、私はホスピスのマリア様の前で、長いことお祈りを捧げた。
息子さんの図らいで、ご遺体は一旦、自宅へ運ばれることになった。
「杉崎さんには、いつも母が良くして頂いたそうで…。担当の看護師さんから聞きました。先程はすみませんでした…顔を見ただけで、帰ろうとしてしまって…」
霊柩車に乗り込む前、息子さんはそう言って頭を下げた。最後の最期まで礼儀正しい所は、河本さんそっくりだな…と、感心させられた。
(やっぱり私はまだまだ未熟者ですね…虚しさからお祈りもせずにいるんですから…)
反省の意味も込めて懺悔していると、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、研修医の彼が立っていた。
「亡くなられたと今聞いて…。大丈夫?落ち込んでない?」
心配そうな顔で私を見る。彼がずっと私を励まし続けてくれたからこそ、河本さんの部屋へも足を運べた…。
「うん…大丈夫…最後の瞬間に、息子さんが間に合ったから…」
開業医の先生は、古い職員名簿を探し当て、息子さんの事を調べてくれた。電話でお礼を言うと、
「お世話になったご恩返しですよ」
と笑われていた…。
人を尊び、寄り添う彼女の生き方が、切れていた糸を再び結んだんだ。
「良かったね…間に合って…」
立ち上がる私に手を貸す彼の肩に凭れた。
もしこの人と別れる瞬間が来た時、自分は素直に笑ってあげられるだろうかと思うと複雑だった…。
「なお君…どこにも行かないでね…」
首に腕を巻きつけ甘えた。院内でそんな態度をとったのは初めてだったから、彼の方が慌てて狼狽えていた。
「そんなに心配しなくても大丈夫。平気だから…」
小さく笑って顔を上げた。恥ずかしそうにしている彼の頬に、そっとキスをした…。
「バレてもいいの…。恥ずかしくなんかない…。貴方ならきっといいドクターになれると、私、信じているから…」
胸に顔をうずめ、暫し幸せを噛みしめた。彼の事を好きになった自分が、いい買い物をしたみたいで、得意でならなかった。
「今夜、当直…?」
研修医の大事な仕事。大変だけど、皆が乗り越えて行く道。
「ううん。明日」
「そう。じゃあ今夜は一緒にいて…。私きっと、たくさん泣くと思う…」
彼の前でだけは、素の自分でいたい…。いつもそう願っている。だからここでも、同じようにした。
「いいよ。涙が乾くまで側にいる…」
包み込まれる身体が温かくなる。
もう二度と、彼の事を恥ずかしく思ったりなんかしない。
(この人は、私の心を、唯一解放してくれる人だから……)

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