男嫌いな“淑女(レディ)”の口説き方
「さて、姫野さん。さっきの電話対応、よく頑張ってやり遂げてくれたよ。あなたは相手の要望をまず聞いてくれていた。電話対応の基本がしっかりできていた、姫野さんに任せて良かったよ…ありがとう。ただ。皆川の発言は…あの域までいくと、もう業務妨害だよ。工藤が来て、俺が合流したら…ちゃんと話をつけるから安心していい。」

「でも、本条課長。私のためにわざわざ波風立てるようなことは――。」

ここ数年…人と関わる恐怖心を回避するために"トラブル"を極力避けるように振る舞ってきた私は、思わず本音を(こぼ)してしまった。

「俺も、あなたへの言葉が"あの一瞬"で済んだなら…めくじらは立てていない。構う方が“あのタイプの女”は図に乗るからな。だが、皆川との"ムダな会話"が2分はあった。2分もあれば、最新のコンピューターウィルスなら…PC全体の20%に影響が出る可能性もある。」

「PC全体に、5分の1のダメージ…。そんなに……。」

「そうだ。【ウィルス対策業務】は医療現場で言えば、【救命救急】なんだ。ものの数秒で内部データがやられていく…。覚えておいて。そしてグレースクリーンが出てるということは…だ。少なくとも稼働できていないPCがあるわけだ。その時点で、カルテに記載されるドクターからの指示に目を通せない人が出てくる。"俺たち側"だけじゃなく…"病院側"からしても、いい迷惑なんだよ。だから、"あなたのためだけ"じゃないんだ。実害が双方に出ているんだから…正当に、苦情は言うべきだ。ビジネスだからな。」

課長の言葉に私はハッとさせられた、そうだ…ビジネス。
私たちはボランティアでPCのメンテナンスに来たんじゃない。

課長の言葉を聞き、院長先生も"うんうん"と頷きながらニッコリ笑っている。

「それからな、姫野さん…。【視線】や【罵倒されること】が怖いなら、無理に1人で戦わなくていい…言い返そうとしなくていい。俺が病棟に行ったら、ちゃんと言ってやる。それから【incomily(インカミリィ)】を通して4人の声は聞こえてる。もし俺に言いたいことがあったら、今日の場合だったら…俺が[Host(ホスト)]だからそれを示す[H]のボタンと、姫野さんの番号として割り当てられている[3]を押せば"俺とのみ"の会話も可能だ。安心して何でも言ってきたらいい。会話することで、あなたが楽になるなら…いくらだって聞くよ。」

どうして“この人”には…こんなに伝わるんだろう。
もう…私を泣かせにかからないでほしい。

「課長……。」

「“俺たち”は、あなたが今日のために知識を入れていたのをちゃんと見てるし、知ってる。『私はちゃんと答えられます!』って言い返してきてもいいぐらいだよ。大丈夫だ。あなたは1人じゃないし、責められるようなことは何も無いから…“普段の姫野さん”で臨めば良い。…どうだ?頑張れそうか?」

「ありがとうございます、本条課長。『普段の私で臨めば良い。』…"この言葉"があれば、きっと大丈夫です。睨まれないか、罵倒されないか…怖いし、不安ですけど頑張ります。」

「よし。普段の【自信のある笑顔】になったな!そのまま"やること"と向き合えばいいよ。【マスターPC】のチェックが済んだらすぐ向かうからな。」

「はい!」

「じゃあ、また後で…。観月、いろいろフォロー頼むな。…あぁ。それから、桜葉に持たせるの忘れた。俺の工具箱持っていって使え。」

「はい、もちろんです。えぇっ!?課長の工具箱なんて触れないですよ!」

「お前なぁ…。じゃあ…中のHDD、どうやって交換するんだよ。それに【今日持ってきた方】は、そんな高いもの入ってねぇよ。みんなホームセンターで買えるような工具ばっかだよ。まぁ、実際は直営店で買ってるけどな…社員割あるし。ドライバーの1本や2本壊れたり無くなったところで、別に怒らねーよ。また買うだけだし。むしろ…何で、お前は【会社の備品の工具】の方が触れるんだよ。俺からしたら、そっちの方が神経使うぜ。」

あはは。相当あるんだ…工具。
この2週間で、なんとなく感じ取ったけど――。
本当に、"機械イジリ"が好きなのね、課長ったら。

そう言って観月くんに工具箱を持たせた本条課長は…私たちに背を向けて、ひとまず本条先生と隣の〔副院長室〕に歩いていく。

「あー。ホントに握らされた、緊張するんだよなぁ…課長の物触るの。…とか言っても、ビビリすぎても仕方ないし…内科病棟行きましょうか。」

「ふふっ、“観月さん”なら大丈夫ですよ。故意に破損させたりはないでしょう?」

「もちろん!」

「はは。すまないね、観月くん。昴に合わせると仕事するの大変じゃないかい?昔から【好きなもの】のこだわりは強くてねー。でも君たちのことは…よほど信頼してるんだな。“あの子”が工具を触らせるとは…。今日は本当に"【良いもの】がたくさん見られる日"だ。…さぁ、じゃあ行きましょうか。観月くん、“姫野さん”。……こちらです。」

「はい。院長先生…案内、ありがとうございます。よろしくお願いします。」

こうして、私たちと院長先生は2階の内科病棟へ向かった。

**

「えっ…!?どうして院長先生も一緒に居るの?」

看護師さんたちのそんな声が耳に届く。

あー。院長先生も一緒に来たからザワついてるのね…。

病院内のほぼ統一された内装は、アイボリー色のシンプルな壁紙クロスやライトブラウンのナースステーションカウンターをベースとした作りだ。
柔らかな印象を与えてくれる薄オレンジの間接照明とともに、【落ち着ける空間】を作り出している。

そして、そんな内科病棟のナースステーションカウンターの一角に置かれている花瓶には…【季節の花】が上品に飾られている。

「あ、“シュウ”来た来た!悪い。HDDだけ持ってきて…工具、院長先生の部屋に忘れて来ちゃってたから助かった。」

「こんにちは、失礼します…。」

「失礼致します、こんにちは。」

2人で同時にそう言って、内科のナースステーションへ足を踏み入れる観月くんと私。

(いつき)…お前、忘れんなよ。"課長の私物"持ってんの緊張するんだからさー。」

「“シュウ”、お前ホント…ビビリすぎ。実際、課長の工具使ったところで…“あの人”が俺たちに何かしてきたことないじゃん。」

「だってさぁ…。何か緊張しねぇ?課長がどんだけ【箱】も【中】もイジるの好きか知ってるし、一式揃えてるしさ…。」

「まぁ、言いたいことは分かるけど…。それより“シュウ”は【もう1台のグレースクリーンPC】のバックアップ取ってってば。あんまり作業進んでないと課長にまたドヤされるよ?【incomily(インカミリィ)】で聞こえてんだから。」

うん? 【箱】って何のこと?

「{こちら本条。コラ、"工具壊しそう"云々(うんぬん)でそこまで話を引っぱるな。今は俺が“機械バカ”だってことはどうでもいいよ…置いとけ。それに、いきなり【箱】とか【中】とか言ってんじゃねぇよ。『内輪の話する時は気をつけろ。』って言ってるよな。俺たちみたいに、理工系の大学出てる津田は【耳にする単語】だと思うが…姫野さんには、おそらく耳馴染み無いと思うぞ。姫野さん、悪いな。混乱してないか?…【箱】ってのはPC本体…いわゆるボディのことで、【中】ってのは【内部パーツを見ること】もしくはプログラミング調整の意味で使われることが多い。ある種の【業界用語】みたいになってるが…実のところは誰か言い出した造語だから、覚えなくてもいいし…知らなくても問題は無い。}」

あぁ。なるほど、確かに【箱】ね。

「そういうことなんですね。了解しました、本条課長。」

それはそうと、自分で“機械バカ”って言っちゃうのね…。なんか可愛い。

「{姫野さんと津田に…最低限の業務指示はちゃんと出してやれよ。2人とも。}」
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