夜叉の恋


「私、死んでないの……?」


信じられないというように目を見開いたまま固まる寧々に頷く。

やがて頬を両手で覆うように押さえて俯き、そのまま黙って考え込む様子の寧々を見守っていれば暫くして徐に静を見上げた。

栗鼠のような大きな栗色の瞳が、ぱちくりと静の姿を映す。

彼が背負う空はすっかり日が暮れ、橙色に染まっていた。

寧々は困惑した様子を隠し切れないまま、不安気に静に問う。


「でもね、私は生贄になったの。ちゃんとお酒だって飲んだよ。それに……」


――とてもとても、とても。

苦しい思いをしたよ。


その言葉は口には出さなかったが、言わんとしていることは通じた。

静は暫く考え込むと、言葉を選びつつゆっくりと話して聞かせる。


「お前は確かに死に掛けた。……私が見つけた時、既に虫の息だった。放っておいてもよかったのだ。だが……私の問い掛けに、お前は生きる意思を見せた。だから助けた」


静の言葉に、寧々は自分の体を見下ろす。

今まで話すことに夢中で気付かなかったが、確かに自分の記憶の最後と同じ白い小袖。

白といっても、すっかり汚れてしまっているけれど。

しかし手で触れる頬は汚れなんて付いていなくて、寧々が不思議そうに静を見上げれば「拭いた」と簡潔に返ってきた。

そうか、拭いてくれたんだ。

自分を助けてくれただけじゃなく、気を失っている間に顔まで綺麗にしてくれたのだ、この優しい妖は。

だってきっと汚かった。

土とか血とか、色々。

寧々はふふ、と嬉しそうに顔を綻ばせる。

今度は静が不思議そうに首を傾げた。


「……どうした」

「ううん、何でもないよ。ありがとう、って思ったの」


そして徐に静を見上げると、寧々は笑って言った。


「ありがとう、静さん」


――優しいね、と。

言いそうになったけれど、きっとこの妖は素直に受け止めないだろうと幼い勘がそう言うから。




今日、私は生贄になった。

複雑な想いを抱えながら、とてもとても、とても苦しい思いをして。

だけど、優しいひとに出逢ったの。

それは人ではないけれど、きっと今まで出逢ったどの人よりも優しくて綺麗な妖。

長い黒髪と藍色の瞳。

そして、瞳と同じ藍色の着流しを身に纏う。

怖くなんてない。

私を助けてくれたその妖は、きっととても温かい心を持っている。

夜色の妖。


――その日の夜。


父ちゃんが死んで、母ちゃんがいなくなって。

初めて、こんなにも安心して眠ることができたの。


ありがとう、優しい妖さん。

ありがとう、優しい静さん。



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