あたしのママの恋の話
 夏休みに入って、あのとき起こったことが、全部夢だったんじゃないか、とあたしが思うようになっていた七月の末、その子が突然あたしの家にやってきた。
 聞き覚えのない声に呼ばれたあたしは、玄関先で凍り付いた。


「僕、今日で引っ越すから」とその子は俯いたまま言った。
 あたしは真夏なのに、寒くて堪らないみたいに震えて、何も答えられなかった。その子はどういうつもりか、あたしの胸の上で組んだ腕の中に郵便はがきを一枚差し込み、逃げるように走り去った。


 あたしは触るのも嫌で、身体を揺すってそれを床に振り落とした。
 裏側に、『よげん』と赤いペンで大きく書いてるのが見えた。
 安いインクのせいで滲んでいなければ、教科書みたいなとてもきれいな字だった。


 あたしは今直ぐ部屋に引き返したかったけど、お化け屋敷に入るときみたいな、恐さがない交ぜになった好奇心に負けて手を伸ばした。
 赤い字のその下に印刷したみたいな黒い字で何かが書き付けてあった。
 あたしの手は酷く震えたけれど、何とかこう判読できた。



『中森陽子さんへ。/
 あなたは十年後、クラスのある男子と結婚したくなるけど、
 もっと好きな人ができて止めます。/
 それは僕です。/
 きっかけは、TVみたいなものです。/
 それではさようなら。/
 計都宗真(けいとそうま)』。



 あたしは恐怖に叫びだしそうになりながら、大急ぎでそのはがきを出来る限り小さく細かく引き裂いて、家の手前のどぶ川まで走っていって捨てた。
 もちろん、表面にある住所なんか見もしなかった。
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