こころは霧の向こうに
今日はいい子にしていたそうよ」
 抱き合う母子の姿を見守るアンが、くだけた口調で報告した。身分の上ではリンズウッド伯爵夫人がはるかに上位のため、出逢った当初はかしこまっていたアンだったが、堅苦しさを嫌うソフィアの希望で、人目を気にしなくていい時は、友人として接している。地元では同世代の者が少なく、2人は年がさほど離れていない貴重な友人なのだ。
 地元の学校への援助など、普段からソフィアの仕事を手伝っているアンは、グレースとも友人だ。1人っ子のグレースは、アンを姉代わりとして慕い、懐いている。アンも1人っ子のせいか、年の離れた妹のようにグレースを可愛がってくれているのだ。

「それはえらかったわね。あなたは母さまの誇りだわ」
 額をこつんと合わせて、真面目くさった口振りでいうと、グレースも(幼いなりに)重々しい口振りで、
「母さまもわたしの誇りだわ」
と、返してくる。そうして部屋中に3人の笑いが弾けるのが、いつものパターンだ。

 気分はたちまち、羽が生えたように軽くなる。室内に笑い声のこだまが残るうちに、再びソフィアは寝椅子に腰を下ろし、アンは近くのソファに座った。グレースが母親の隣に座ろうと、寝椅子によじ登ろうとしている。それを抱え上げ、隣に座らせているうちに、ノックの音がして茶器を持った若いメイドが入ってきた。
 エミリー大叔母の口利きで、適正価格で借り受けたこのタウンハウスは、持ち主が静養で温暖な外国に行っている間、使用人も置いていってくれた。そのため、この家で身の回りにいる使用人のうち、元々ソフィアに仕えているのは、侍女のアリスと、従僕のダン、それにグレースの乳母ぐらいのものだ。他家の使用人といってもレベルは高いので、安心して来客の対応もさせているが、慣れ親しんだ人々のもとに戻りたいという想いが、こういうところでも芽生えてしまう。

 テーブルでメイドがお茶の用意をしている間に、先ほど決めたことを告げておこうと、ソフィアはアンに顔を向けた。疲れたように、暖炉の火をぼんやりと眺めていたアンが、視線に気づいて顔を上げた。
「どうかしたの、ソフィア?」
「あのね、考えてみたのだけれど――」

 ソフィアの言葉を遮ったのは、再びのノックの音だった。扉が開き、執事が銀のトレイに郵便物を乗せて入ってきた。いくつもの封筒が乗っているそこに、アンとソフィアの注意は流れてしまう。アンの表情が浮かないのは、おそらくまた父親から届くだろう手紙のことを思ってに違いない。
 うやうやしく差し出されたトレイの上から、封筒を受け取り、ソフィアはひとまず先にそれらを確認することにした。ウェルズ大佐からの手紙が紛れていれば、それをさっさと「やっつけ」てしまった方が、アンにとっては夕食の収まりもいいはずだ。
 アンの視線が手元に注がれているのを意識しながら、ソフィアは1つ1つの封筒を確認していった。主の邪魔にならないよう、執事は一礼をして、音もなく退室していく。メイドが準備している紅茶の、茶葉が蒸れてから発するすっきりとした香りが、暖炉の前にまで漂ってきた。

 領地の管理を任せている家令からの分厚い封書が、真っ先に目についた。おそらく、共同出資している鉄道事業に関する月例報告の写しや、退職願いを出している村の小学校教師の、後任選出についての資料だろう。帰宅してからすぐに取りかかれるように、資料を送付するよう指示しておいたから、そろそろ届くはずだった。
 家庭内だけでなく、領内全体について、様々な観点から状況を把握し、適切な判断を下せるよう、ロンドンに出てきてからも、ソフィアは伯爵代理としての責務を果たすように心がけてきた。
 アンについて外出するだけの、華やかな社交生活を送っているのではなかった。外出しない夜や午前中の時間は、もっぱら書斎にこもり、家令や代理人、家政婦たちへ手紙を書いた。必要があれば代理人や弁護士を呼んで、速やかに決断を下してきた。
 夫に背中を押され、グレースに支えられて歩んできたソフィアの世界は、大きく広がり、刻一刻と動いているのだ。社交シーズンを途中で切り上げても惜しくないのは、そのためだろう。5年前の彼女なら、地団太を踏んで残念がったに違いないのだから。
 リンズウッド伯爵家に付随する事柄は、いまやソフィア自身の問題でもあるのだ。早く中身を確認したい衝動に駆られたが、アンの視線を感じて手を止めた。領地からの封筒は、逸る心を抑えて開封を後回しにし、ソフィアは手早く残りの封筒を確認していった。

 ロンドン滞在を始めてから見慣れた、癖のある筆記体で『ミス・アン・ウェルズ』と記された宛名書きと、裏に大佐の署名が入った厚みのある封筒は、今回は見当たらない。最後の1通を手にとると、宛名は『リンズウッド伯爵夫人』となっている。
「残念ながら、お父様のお手紙は、今日はなかったわ」
 思わずにやりとしながらアンを見ると、あからさまにほっとした表情を浮かべて、ソファに崩れ落ちたところだった。
「ああ、良かった!今はとてもじゃないけど、パパの長ったらしい質問を読んだり、答えを考えたりする気分になれないんですもの。パパの質問には、懇切丁寧、完璧に答えなくてはいけないし・・・・・・新聞の連載小説を書く方が、よっぽど楽に違いないわ」
 現在上流階級のご婦人方の間で愛読されているのは、某新聞に連載中の、永遠の愛をテーマにした小説である。作者は既婚夫人だという女性作家で、愛に恋する貴族女性が、幾多の障害を乗り越えながら、初恋の男性との絆を深めていくという内容で、連載開始から3年以上が経過している。いつ完結するのか、誰にもわからない。
 とはいえ、アンの言葉もあながち嘘とはいえない。父親の手紙と同じくらい分厚い手紙を書くことを要求されているのだから。
 だから今も、ソフィアは声を立てて笑ってしまった。
「確かに、アン・ウェルズも大作家だと思うわ」
「ええ、いつでもプロデビューできるわよ」
わざとしかめつらしく言葉を返して、アンはやれやれと立ち上がった。そのままテーブルへ歩いていき、メイドからお茶を受け取った。椅子から滑り降りて、グレースもアンの側へと寄っていく。

笑いの余韻を唇の端に残しながら、ソフィアは最後に残った封筒へ視線を落とした。上質の紙でできているから、どこかの貴族から届いた招待状か何かだろう。そう見当をつけながら、何気なく封筒を裏返したソフィアは、次の瞬間、突如顔を強張らせた。

その封筒の裏に施された封蝋は、ソフィアも何度か見かけたことのある、バリー伯爵家の紋章だった。
バリー伯爵――ブラッドの兄が、ソフィアに何の用があるというのだろう。彼らの祖母であるレイモンド侯爵夫人とは、時折手紙のやり取りをするけれど、アーサー・ヒューズとの交流はないはずだ。
嫌な予感が、背中を走り抜けていく。
緊張で、首の後ろが急に冷えていくのを感じながら、そっと封筒を開けた。情けないことに、指先が細かく震えてしまう。
中から現れた、封筒と揃いの上質の紙で作られたカードを開くと、丁寧に刷られた文字が目に飛び込んできた。内容を追うにつれ、こめかみまでもが、すうっと冷えていく。
「ソフィア?」
顔色が蒼白になったソフィアに気づいて、アンが声をかけてきたけれど、カードに視線を向けたまま、ソフィアは呆然と立ち尽くしていた。
「ソフィア、どうしたの?」
アンの声は、今のソフィアの耳には入ってこなかった。ソフィアの意識は、ある1点にのみ向けられていた。

(ブラッド――!)

 舞踏会で見た彼の、皮肉げに口元を歪めた微笑が、脳裏に浮かんだ。このカードをソフィアに送るよう、彼が兄夫婦に働きかけたに違いない。
 それは、バリー伯爵家のカントリーハウスで開かれるハウスパーティーへの招待状だった。そのため、差出人はバリー伯爵夫妻となっている。

 ハンプシャーに広大な敷地を持つ伯爵家のカントリーハウスで開催される、大規模で豪華なハウスパーティーは有名だった。そこに招かれるのは大変名誉なこととされており、誰もが参加したがった。
 ソフィアも一度参加したことがある。5年前、社交界にデビューした春、ブラッドの口利きで招待状を手に入れ、夢のような時間を過ごした思い出の場所だった。
 今回の招待は更に、アンとグレースを連れての参加を歓迎するという1文まで加えられてる。バリー伯爵夫妻と交流のないソフィアと、その娘と友人まで招待するのは、伯爵夫妻の気前がよいとしても、唐突で不自然だった。

 伯爵夫妻とソフィアを繋いだ線の上に浮上するのは、ブラッドしかいない。
 彼のすらりとした後姿が思い浮かべると、視界がぐらりと揺れた気がした。
 目眩がするのも当然だ。ソフィアは刹那的に憤りさえ覚えた。
 キスの意味もわからないままなのに、ハウスパーティーに招くとは、彼は何を企んでいるのだろう。2人の間に存在した時間を、改めて甦らせようとでもいうのだろうか。伯爵家自慢の美しいカントリーハウス――ゴールド・マナーで。
 豊かな自然に囲まれたゴールド・マナーの、どっしりとした歴史ある城館が、瞼の裏に浮かんだ。5年前にただ一度きり訪れただけなのに、光景が鮮やかに甦ってくる。天に向かってそびえる塔、敷地を横切るテスト川、なだらかに続く丘・・・・・・森の中の古びた狩猟小屋、薪がはぜる音、重ね合った身体、サファイアの瞳。

 幸せな時間と、背中合わせに続く試練の記憶が、勢いよく噴き出し、立ち尽くすソフィアに襲いかかる。
 本能的に頭を掠めたのは、(逃げなくては)という警告だった。
 あそこに行ってはいけない。招待を断らなくては。

 思考するのはそこまでが限界だった。両脚が萎えて、全身に力が入らない。くらりと部屋の景色が回り、驚いたアンの顔がちらりと映ったけれど、すぐにソフィアの意識は、霧に飲み込まれるように白濁していった。
 手放した意識のきわ、夢のように境界線が曖昧になる中で、囁きかける声は、誰よりも愛したあの人のものだった。

(ブラッド、どうして――?)

 投げかけようとした声は、暗闇に呑まれ、どこにも届かない。底のない淵に沈んでいきながら、ソフィアは、むなしい問いかけを抱きしめていた。
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