私と彼の恋愛理論
「翔子は?どうしてた?」

急にそう問われて、返答に困る。

「どうって、何も変わらないけど…。普通に仕事しながら、ここで暮らしてただけよ。」

嘘を付いても仕方ないので、本当にありのまま答える。

彼は、「そうか」と言って少し笑った。

「…でも、もうすぐホテルは辞めようと思ってて。」

私に報告すべき近況というものがあるとするならば、今はそのことだけだ。

「辞めるって?」

彼は少しだけ驚いた顔をしながら、問いかけてくる。

「知り合いのシェフが隣の市にレストランを開くの。そこで、働かないかって。」

30歳を過ぎて、正直なところ、体力的にホテルの仕事がキツくなってきた。
シフト制で、時には深夜までの勤務もある。
このまま続けるのか迷っていたところ、偶然、行きつけのカジュアルフレンチの店で声を掛けられた。
働いているシェフの一人が結婚して独立するため、ソムリエを探しているという。

ホテルと違い、個人経営のお店は営業時間も休日も固定されている。
会ってみたオーナー夫婦もとても感じがよく、働きやすそうだった。
まだ正式に決まったたわけではないが、お店がオープンする来年春までにはホテルを辞めて、そちらに移ろうと考えていた。


「知り合いのレストラン…」

「ええ、そうなの。若いけど、腕は確かなシェフよ。」

そう言うと、彼は少し気まずそうな顔をした。

「その…シェフとはどんな関係?」

彼の問いかけに、固まってしまった。
おそらく、シェフが既婚者しかも新婚だとは思わず、あらぬ勘違いをしているのだろう。

敬一郎は、頭がいいくせに、昔からそういう勘はまるで働かなかった。
彼らしい勘違いが懐かしくなって、ついつい口元が緩んでしまう。

その誤解を解こうとして、私が顔を上げた瞬間、彼が目尻を下げて優しく笑っているのが見えた。

「そうか、翔子は今幸せなんだな。」

私の微笑みから、彼はそう解釈したらしい。

満足そうに微笑む彼に、私はあえて否定の言葉を口にしなかった。

どうせ、彼とはもう会うこともないだろう。真実を告げたところで、何も変わりはしない。

昔の恋人が幸せであることに安堵して、彼にも幸せになってほしい。

心から、そう思えた夜だった。
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