インセカンズ
「勇気出してここまで来た甲斐あったな。逃げなかったおまえは偉いよ」

「偉くなんてないです。当たって砕けるなんて惨めな思いしたくないから、自分から身を引こうとした臆病者なんです」

「何でもいい。アズが俺を選んでくれたんだから、結果オーライで俺は言うことないよ」

安信は、ふわりと笑って、愛おしそうに緋衣の頬を撫でる。この優しい瞳で見つめられたいと、恋人にするのと同じように愛してほしいと何度願ったことだろう。それが、今はこうして想いが伝わって、会社では決して見せない顔で微笑んでくれている。心底、彼を訪ねて良かったと思う。

二人はソファに座り直すと、改めてグラスを重ねる。

「始めから、こうなるって分かってたんですか?」

緋衣が訊ねれば、安信は、ハッと笑いながら首を横に振る。

「アズに彼氏いるの知ってて、そこまでの自信なんてねーよ。ただ、おまえを手に入れるって決めてから、結構分かりやすいアプローチしてたはずなんだけどな。身体はとっくに落ちているはずなのに何度抱いても靡かないから、何かしらあったにせよ、彼氏と強く結ばれてるんだなって思ってた。プロポーズされたって聞いたときは、アズのまえで余裕かましてみたけど、もうだめかもしれないってマジで諦めかけた。おまけに、衝動に任せて無理に抱いたし。だから、本当に嬉しいよ」

彼の視線は優しいままだ。少し照れくさそうに笑う姿は少年のようで、屈託ないその笑顔に、緋衣の心は満たされていく。けれども、緋衣にはまだ確認したい事がある。

「ヤスさんは、もし私がとんとん拍子で結婚まで行っていたらどうするつもりだったんですか? 一度も引き留めてなんてくれなかったし」

少しだけ頬を膨らませてみせる緋衣に、安信は打って変わって、疎ましそうに顔を顰める。

「なんだよ。古い映画のワンシーンみたいに、式の途中で攫ってほしかったのか? ……アズさぁ。今、取りあえず、こうして落ち着くとこ落ち着いたから良いけど、そっちだって相当ひどかったよ。俺は意識してやってたけど、アズなんて、どうせ無意識下で気のある素振りしてたんだろ。本当タチ悪いし。やり終わった後だって、すっきりした顔してすぐに服着てただろ。何度も素っ気ない態度取られても、めげずに想い続けた俺を褒めてくれても良いと思うよ」

「だって……。ヤスさんだって恋人いるって言ってたじゃないですか。婚約者のことだってきちんと否定しなかったし。私、本当はまだ気にしてるんです。前に、私と入れ違いでこの部屋に来た女性ですよね? 婚約者だって噂された相手」

緋衣は、廊下で擦れ違ったロングヘアの女性を思い出す。手入れの行き届いた綺麗な髪をしていた。

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