インセカンズ
「アズ……」

安信は彼女を呼ぶと、参ったように溜息を吐く。

「俺には、アズの行動全てが誘っているようにしか思えないんだけど。俺に焼きが回ったのか、それとも罠が仕掛けられてんのか、一体どっちだ?」

そう言われて、緋衣はすぐには答えられなかった。自分でもよく分からないのだから、上手く説明なんてできるはずもない。

「どっちもそんなつもりはないんです。もし誤解させるような行動があったとしたら謝ります。……ただ、自分でもどうしてこんなことになっているのか分からないんです」

「……つまり、便乗するなら今ってことだな」

安信は振り払われたばかりの手で、目を伏せてしまった緋衣の顔を上に向かせると、そのまま唇を重ねた。

「この意味分かるか? 俺は、一度きりで終わらせるつもりはないってこと」

「……ヤスさん、彼女いますよね」

「だから? 始めから分かっていたことだろ」

「そうですけど、倫理の問題です」

「今さら、道徳を持ちだすのか? アズが嫌なら、ノーとひとこと言えばいいだけだ。それで終わる」

安信は嘲笑うと、今度はまるで緋衣を射抜くかのような真剣な眼差しを向ける。

「そんな簡単な事じゃない……」

実際は至極簡単なことだ。自分のポリシーに従ってノーと言えば良い。ここで拒絶すれば、ああは言っても安信はあっさり手を引くだろう。

亮祐がクロと決まったわけじゃない。けれども、安信と身体だけの付き合いをして、その先に何があるというのだろう。何もない。一度は関係を結んでしまったが、彼は恋人の存在を否定しなかった。人の幸せを横から手を出して邪魔するつもりはない。それなのに、どうしてたったひとことノーを言えないのか。

「会社での事を気にしているのか? それくらい、アズならこれまで通り上手くやれるだろう」

安信が言うように、確かに緋衣であれば卒なくできるだろう。

「違くて……。そういう事じゃなくて……」

緋衣は言いたいことが纏まらず、前髪をくしゃりと握る。
< 85 / 164 >

この作品をシェア

pagetop