水平線の彼方に( 上 )
ノハラの所へ行った翌週から、私は花屋の仕事に専念した。
それまでたった数時間しか働いていなかった仕事がフルタイムになり、していなかった仕事もするようになり、結構忙しかった。
コンビニのバイトをしていた頃は、ノハラともよく顔を合わせていたけど、辞めてからは見ていない。
彼が佐野さんの花屋に寄るのは一週間に一度程度だったし、注文によっては来ない週もある。
この間の事があってからは私の方も、彼の仕事場へ足を運ばない日々だった…。

でも……

店の中にある観葉植物を見る度、あの時の神妙な顔つきのノハラが思い出された。

いつもの明るさで、あの表情を吹き飛ばしたい…。
そうでもしないと、いつまでも気持ちが晴れない…。

そう思ってばかりいた…。


「…最近、真悟来ないね。どうしたんだろう?」

フルタイムで働き始めて二週間近く、全く店に顔を出していなかった。

「観葉は今が一番売れる時期なのに…」

数が少なくなった鉢植えを見て、佐野さんが残念がった。

「こんな事、今まで一度もなかったのになぁ…」

不思議そうに呟いている。


(私がフルで働き始めたから…?)

ふと、そう思った。
完全に被害妄想だけど、なんとなくそう思えてならなかった。

(……あの表情のせいだ…)

何かにつけ蘇る。
見たことのない顔に、胸がざわめいた…。


「電話してみたらどうですか?発注ついでに」

思いついて提案した。
自分はメアドも電話番号も知らない。でも、佐野さんはきっと知っている……そう思ったから。
けれど……

「あれ⁈ もしかして、花穂ちゃん知らないの⁈ 真悟は右の耳が聞こえないから、ケータイとか持たない主義なんだよ」

「えっ⁉︎ 」

聞き間違えたかと思うくらい驚いた。

「右耳が聞こえない⁉︎ ウソ!今まではちゃんと聞こえてましたよ!」

返す返す思い出してみても、聞こえてない風には思えなかった。
佐野さんに勘違いじゃないか…と言おうとしたら、反対に理由を説明された。

「何年か前に海難事故に遭って、それ以降聴力を失ったらしいよ」

詳しいことは知らないけど、本人からそう聞いたのだそうだ。


「海難事故…」

数ヶ月前、ノハラの言っていた言葉が、それと重なった。

誰にも言えない事故の秘密が、毎年の異変に繋がっているとしたら…。

「あの…佐野さん……」



心の中に、嫌な雲が立ち込めていた…。

ガジュマルの樹の前で立ち尽くしていた彼の姿が、

その雲に覆われ、隠されてしまうような気がしてならなかった……。
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