躊躇いと戸惑いの中で
誘い




      誘い






「おはようございます」

出社して自席について間もなく、すっきりとした顔の乾君が現れた。
昨夜のことを思えば、照れくささに直視できずに机の上の書類に視線を置いてしまった私。
けれど、彼は真っ直ぐ迷うことない瞳で私を見つめている。

「おはよう」

観念して、ボソボソッと照れくささに挨拶をした。
僅かだけ視線を上げて済ませたのだけれど、挨拶が済んでも彼は机の前から離れない。

なに? そう訊ねるように彼を見ると、なんていうかピンク色したレーザービームみたいなのが見えるくらいの熱い眼差しを私に向けていて、朝からドキドキと心臓が落ち着かなくなる。

社内で、しかも他の社員が居るのだから、現を抜かしている場合じゃない。
年下相手に、負けるな私。

ピンクのレーザービームをすり抜けるように彼を見ると、にこりと笑顔が返された。

ちょっ、ちょっと待って。
それは、反則ね。
何も言わずに笑顔だけって、目が泳ぐじゃない。

私、公私混同なんてするタイプじゃないのよ。
がんばれっ、自分!

何と戦っているのか、机の上で何故だか強く拳を握り締めてしまう。

昨夜、私のいい訳を止めるような乾君からのキスは、たまたまやってきた住人の足音が聞こえてくるまで続いた。

それは、意外にも長い時間で。
私は、それまでずっと心地いい緩やかな波間を漂うように、彼のキスを受け入れ続けていた。

住民の足音によって離れていく唇は惜しくて、背の高い彼を見上げると乾君は嬉しそうに私のおでこにおでこをくっつけて静かに笑った。

本気だという彼の気持ちをこれ以上拒否する理由も見つからなくなった私は、自分の中にあった結婚という絶対的なワードの土台が揺らぎ始めていたのも手伝い、躊躇うことなく乾君の彼女となった。

答を出した私のことを、彼はその場でぎゅっと抱きしめてくれた。

彼の腕が優しくて、酔いしれた夜。
嵐のように起こった出来事の真ん中で、今まで自分が考えてきたことが、建前だけの薄っぺらな物だったんじゃないかって感じていた。
周りにやいのやいのといわれることで、結婚はしなくちゃいけないと、自らに暗示をかけていたのかもしれない。
なんなら、三十だから何? と開き直るくらいでいいのかも。
というのは、楽観的過ぎるだろうか。


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