サクラと密月




あっという間に演奏が終わってしまった。



店の照明がついて、演奏していた彼とは別のウェイターがやってきて、空になった皿を


下げた。


でも私は動けずにいた。



こんなことは初めてだった。



演奏前の黄色い声援。


あの気持ち、すごく良くわかった。


なんとか紅茶を飲み干し、店を出た。



それから私のその店通いが始まった。



給料の出た週末は必ず店に出掛けた。



店の名前は、パームビーチと言った。



通いだしてから、店の入口の横にヤシの木があることに気が付いた。


それが私の唯一の楽しみとなった。



月に一度楽しみの為、毎日を過ごす。



今度行く時は、どんなスカート穿こう。


髪型は、ネイルは、靴は。



そうやって毎日少しづつ自分を磨く。


そうしていると、あっという間に一か月が過ぎていく。



何度か通ううちに、お店の様子もわかってくる。


ピアノだけのクラッシクコンサートの時もあった。


ただ、毎回例の彼は必ず出てきた。



ウェイターに聞いたことがある。



彼はここで働きながら、ステージに立たせてもらっているらしい。


今時珍しいですよね、と女性のウェイターは話してくれた。



一度、サックス、ドラムとピアノ、コントラバスとの演奏を聴いた。


ピアノと一緒の時と違って、激しい曲。


その迫力に押されてしまった。


演奏が終わった後、お店の中は割れんばかりの拍手で一杯になった。



ピアノとの演奏の、静かに歌うようにサックスを吹いたかと思うと、



体全身で叫ぶような演奏。



楽器がまるで歌ってかのようで、サックスってこんなに表情があったのだと初めて知った。



時々彼が見せる、何より演奏が楽しくて仕方がないというその笑顔が、楽器への


愛情を感じさせてくれる。


好きなことの出来ない日々の中で、代わりに彼が歌ってくれているような気がした。


そしてそれを見ていることが、自分の中で一番の癒しになっていることにも気づく。



そういう訳で、端正な顔立ちの彼には既にファンも何人かいた。


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