碧い人魚の海
 貴婦人は今度は、にっこりと笑った。
「でも、裏には裏があるかもしれなくてよ。それは警戒なさいな。そこを見定めたいと考えるなら、相手が何を規範に動いているのかをよく観察することね。大体の人間は、言うことは矛盾していても、比較的、行動は正直だから」
 「行動は──」の言葉とともに貴婦人の両手がすっと伸び、ルビーの肩を包んだ。貴婦人の目が笑いを含んでルビーを覗き込む。

「ではここで、もう一つ別の答えを用意しましょう」
 佇んだまま戸惑った顔で見返すルビーを、貴婦人は強引に椅子に座らせた。

「わたくしは、ひと目見てあなたが気に入ったのよ、人魚。あなたはとても愛らしくて可憐だわ。紅い髪は炎のようだし、瞳はまるで宝石のよう。白い肌はきめ細やかで、透き通る真珠のよう。あなたを手に入れたのは、座長さんのためでもアーティのためでもなく、本当に、ただ単に、あなたを手にいれたくなっただけなの。そばに置いて、好きなときに眺めて、好きなときにこうやって触れるため」

 肩に置かれていた貴婦人の手が、ルビーの唇にそっと触れ、それから両頬を包んだ。その白い美しい顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 キスされる?

 思った瞬間、ルビーは慌てて後ろに下がりながら、貴婦人の肩を両腕で押し戻していた。
 さっき貴婦人が直したばかりの椅子が、もう一度音を立てて床に倒れた。
「舞姫が──」
「舞姫が、なあに?」
 貴婦人は、ルビーに押し戻されたことを気にする風もなく、ごく自然に身を引いて、首を傾げた。
「舞姫が、そういうことは好きな人とするものだって、言ってました」

 自分の意見として言えないところは、我ながら弱いと思う。
 けれどもルビーには正直そういう実感はない。誰かが自分に触れてくることも、自分が誰かに触れることも、何かの感慨を沸き起こさせるような出来事ではない気がした。
 それでも、舞姫が言った言葉の意味をルビーは受け取りたいと感じていたし、舞姫が言っていたように、ブランコ乗りの行動のたとえ10分の1でも自分の窮地を救うためのものであったとしたら、それを進んで無に帰するようなことを、ルビーは望まない。

 それとともに、もうロクサムに構うなと言った、あの女の人の言葉も思い出す。
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