碧い人魚の海

 24 下町の小料理屋

24 下町の小料理屋


「てことは、さっきあの人が思いつきで持ちかけた話に、きみはもう返事をしてしまったってわけか」
 ブランコ乗りは、まいったというように、額を抑えた。
「ええ……」
 しかしルビーは返事もそこそこに、きょろきょろと周囲を見回している。

 そこは、ブランコ乗りに連れて来られた下町の小料理屋だった。テーブルはとても小さくて、同席した者同士が少し身を乗り出せば、頭と頭がくっつくほどだった。
 ホールにはぎっしり客が詰め込まれ、給仕のものは席と席の間を縫うように身体を横にしてトレイを頭の上に掲げ、注文の品を運んでいる。酒も出す店らしく、酒気を帯びた客の怒号も頭上を飛び交っている。

 とはいえルビーとブランコ乗りのテーブルにはアルコール類はない。サルーという酸っぱい飲み物のグラスがふたつと、ブランコ乗りが適当にみつくろって注文した幾つかの小皿料理が、テーブルの上に並んでいるだけだ。
 こんなところに来たことがなかったルビーにとっては何もかもが珍しい。
 カウンターから出たり入ったり忙しく立ち働いている人たちも、給仕を大声で呼ぶ荒くれ男も、怪しげなマントに身を包んでひそひそ話をしている男たちも、くだけた雰囲気でふざけあっている恋人たちも、グラスに注がれてトレイに乗せられて運ばれていく色とりどりのアルコール類までもが、いちいちルビーの目を引いた。

「150日で1000曲とか、無茶だよ」
 忙しくあたりを見回していたルビーは、ブランコ乗りの声に引き戻された。
「そうかしら?」
「毎日欠かさず新しい曲を7曲だよ。そんなに覚えられるの? どこでどうやって曲を仕入れてくるの? 赤毛ちゃん」

 貴婦人といいブランコ乗りといい、数を聞いてすぐさま割ったり掛けたり計算ができてしまうのがルビーには不思議だった。曲を覚えるよりも軽業を習うよりも、計算を習う方がルビーには遥かにハードルが高い気がする。

「それに空中ブランコを習う話はどうなるの?」
「もちろん習うわ。奥さまも見世物小屋に通っていいと言ってくださったし」
「けど、秋から巡業だよ? 巡業について行って歌を覚える時間があるかな?」
「あっ」

 ブランコ乗りに指摘されて、ルビーは初めて巡業のことを思い出した。うっかりしていた。頭からすっぽり抜け落ちていた。
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