碧い人魚の海
「奥さまにお伺いしてみなきゃ。奥さまは巡業について行くのを許してくださるかしら」
「巡業はあきらめて、お屋敷に残って集中して歌を習ったら? 声楽家の先生をつけてくれるっていうんだろ?」
「それは駄目。空中ブランコを習うんじゃなきゃ、何のために自由を賭けているのかがわかんない」
「赤毛ちゃん、きみが空中ブランコに本気なのは、すごくよくわかった。だけどできれば、あの人の口車に乗る前に、ひと言相談してほしかったよ」
 ブランコ乗りは、一つため息をついた。

 ルビーは思った。ブランコ乗りに赤毛ちゃんと呼ばれることに対して、もう一度抗議するのならいましかない。またとないいい機会だ。

「ところでブランコ乗り、あたしのことは赤毛ちゃんじゃなくて、ロビンと呼んでくれる?」
「ロビン?」
 怪訝そうに聞き返すブランコ乗りに、ルビーは頷いた。
「さっき奥さまに名前をいただいたの」
「ロビンか……赤毛頭の鳥だね。まさにそのまんまだ」

 にやにや笑って感想を述べるブランコ乗りの向こうずねを思い切り蹴飛ばしたくなったルビーだったが、かろうじて抑え、睨むにとどめた。
 睨まれたぐらいでは、ブランコ乗りは全く応えた様子もない。
「なるほど、ただ赤毛ちゃんと呼ぶよりは気が利いている。さすがブリュー侯爵令嬢は粋だね」
「ブリュー侯爵?」
 聞きとがめたルビーに、ブランコ乗りは少し顔を近づけ、声を落とした。

「カルナーナではひそかに囁かれている結構有名な話だ。この際だからきみの耳にも入れておくよ。あの人の実の父親のブリュー侯爵は広大な領地を持っている古くからの貴族だったのだけれども、いまは表向きは病で療養中、実際は先の戦争で敵側と通じた罪で幽閉されていると言われている。
 そのことと関係があるのかどうかわからないが、あの人はいま、ブリュー侯爵令嬢を名乗っていない。先の戦争で亡くなった夫君(ふくん)の姓で、ジゼル・ハマースタインとしてひっそり暮らしているんだ。ひっそりというには享楽的な隠遁者ではあるけどね。夫君は爵位のない平民の出の武人だったが、戦争が終わるほぼ直前に敵に捕らえられ、戦死したということだよ。
 きょう、首相があの人のもとを訪ねてきて、あの人が急に出かけていったということは、ひょっとしたら父君(ちちぎみ)のブリュー候に何かあったのかもしれないな」

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