碧い人魚の海

 29 隠し階段

29 隠し階段


「でも、そうね……」
 楽しげに忍び笑いを漏らす男に、容赦のない一撃を与えておいてから、ジゼルはなおも記憶を探る。
「ワルシュティン侯爵は、当時の求婚者の中にいらしたと思うわ。……そのワルシュティン侯爵がどうかして?」

「奥さま、どうぞもう一度横になられて、楽な姿勢で話をお聞きください。奥さまがかしこまっておいでですと、ぼくも話しづらいです」
 つねられたことなど歯牙にもかけない様子の男は、柔らかな声で、柔らかな仕草で微笑んだ。

「ワルシュティン卿は、あなたをお連れになった日のほかに、その前日と前々日と、合わせて3日間続けて見世物小屋に通っておいででした。ぼくのパートナーは最初の日に観客の中から卿の姿を見つけ、非常におびえておりました。卿はとても背が高かったので、人ごみの中でもよく目立っていました。
 ぼくは彼女に興行を休ませるように交渉しましたが、座長はうんと言わず、彼女も座長に逆らうことができず、3日とも軽業の演目に出演しました。そして、3日目に事故は起こりました」

「あの日、ブランコを結わえている横の縄紐が、突然ほどけたように見えたわ」

「ええ。その直接の原因は今でもわかりません。紐は前の晩に親方とぼくとでチェックして、強くしっかりと固定されていることを確認したばかりでした。
 ぼくはあらゆる可能性について考えました。
 貴族の中には不思議な力を使うものがいるという話を聞いたことがありましたので、あの男が何かしたのではないかとも思いました。彼女は何かの口封じのために殺されてしまったのではないかと。でも、ほんとうに偶然の、ただの事故だったのかもしれません。
 あるいは貴族のその男の力が原因でも偶然でもなく、夜中にだれかが大ホールに忍びこんで天井に登って、縄を緩めたのではないだろうかとも考えました。
 結論は出ないままでした。
 果たして口封じの必要な出来事があったのかどうかすら、わからなかったのです」

 静かな口調で彼は話す。感情を抑えた、淡々とした声で。

「彼女とぼくが出会ったあの奴隷商人の館で、最初に彼女を買っていったのがワルシュティン卿でした。そのときは、買われて3日で彼女は売り戻されてきました。
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