碧い人魚の海
 なのに、そんなことはまるで忘れ去られているようだった。翌日の早朝から厨房の仕事、洗濯、薪運び、掃除など、息をつく暇もなく少女は働かされていた。彼女はロクサムに負けないぐらいたくさんの下働きの仕事を言いつけられているみたいだった。
 座長は人魚でなくなってしまった少女のことを、まだ怒っているらしい。

 自分も忙しいロクサムには、少女を助けたくてもなすすべもない。ときどき視界を横切るその姿を横目で追い掛けるばかりだった。

 忙しい一日は飛ぶように過ぎていく。
 それは、夕刻が近づいて、ロクサムがちょうど風呂に薪をくべて女湯の準備を手伝っていたときだった。ちょうどそこへ、洗濯女が他の女たちとおしゃべりしながら通りかかった。
「きょうは人魚はあたしの言いつけを守って馬鹿みたいに洗濯してたよ」
 洗濯女が面白そうに言うのが、薪を放り込んだロクサムの耳に届いた。
「いままでいい思いしてきたんだから、いい気味だね。明日は洗い終わったものを入れた籠を運んでいるところを転ばせてやるよ。そんで、最初からもう一度洗い直しをさせてやるから見ててごらんよ」

「そんなことできるの? さすがに人魚だって怒るんじゃない?」
「もし怒ったら、怒ったことでもっと叱りつけて、もう特別待遇なんかじゃなくて下っ端の下っ端だって思い知らせてやれるからいいのさ。とにかくあすはいいものを見せてやるから、その辺の物陰で見てなよ」
「わかった。うまくやりなよ」
「人魚が怒りだしたら加勢にいくからね。ちょうど見てたけどあんたは何もしちゃいない、転ばしただなんて言いがかりだって怒鳴りつけてやるよ」
 女たちは口々にそう言うと、意地悪な楽しみのためか、顔を見合わせて笑い合った。

 すぐにでも知らせに行きたかったが、風呂係が薪をもっと運んでくるように言ったので、ロクサムは取りに行かなければならなくなった。おまけに人魚がいまどこにいるのか全然わからない。
 見世物一座の小屋のある敷地は広く、後ろは小高い丘の中腹にまで広がっている。
 奥の方では皆の食料用のニワトリを放し飼いにしていたりもするのだ。ロクサムはそちらに手伝いに行くことはないが、もしも人魚がそのあたりまで行くように言われていたら、見つけようもない。

「おおい、湯がぬるいぞう。早く熱くしてくれえ」
 男湯の方から早くも催促の声が聞こえてきている。
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