フキゲン・ハートビート


右側のウインカーがオレンジ色に光る。

発進のサインだ。
教習所で習った。


車がゆったり走りだした。

ああ行ってしまうんだ、と思った。


寛人くん。

ごめんね。

怒ってくれたのに、ごめんね。

ヘラヘラ笑ったりしてごめん。

ごめん。

バカで、ごめん。

でも、どうしたらいいかわかんなかったんだよ。

いまも、わかんないよ。


でも、


「……行かないで……っ」


パーカーのポケットのなか。

小さいピンク色のプラスチックに生えた、しっぽみたいな紐を、おもいきり引っぱった。


防犯ブザー。

買っとけって、持っとけって、寛人くんが言ってくれたやつ。


きっと使い方は間違っている。

でも、いまはもう、これ以外になにも思い浮かばない。


けたたましい音が鳴った。

人間の聴覚にとても不愉快な、音階ですらない音階、それが鳴り響いた数秒後、黒い車は静かに停車したのだった。


やがて、運転席のドアが開くと、のっそりとまっくろくろすけが出てきて。

こっちに歩いてきた彼は最高に不機嫌そうな顔を浮かべながら、あたしの右手から防犯ブザーを奪うと、ぎゅっと紐を差しこんだ。


いきなり静かになったせいで、逆に耳がキンとする。


「……行くぞ」


大きな左手と、冷たい右手。

たしかにつないだまま、車まで向かった。


寛人くんはなにも言わないでエンジンをかけた。


ゆったりハンドルをきる彼の向こう側に、金色に輝く三日月が見えた。


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