手の届く距離
「何やってんの、川原」

「あ、祥子さん。うぁ」

「すっごい声。頑張って歌ってたよね」

まだ数曲しか歌っていないのに、情けなく掠れた声に驚いて自分の喉を押さえる。

爆笑の主はいつもより低い位置にある俺の頭を遠慮なくかき混ぜる。

挨拶代わりだと思っているのだろうか。

一応セットしてる髪型を崩された恨みを込めて祥子さんを見上げるが、俺の返事も反応も必要がなかったようで、視界に映ったのは祥子さんの背中。

楽しいのを隠しきれない軽い足取りでトイレに向かってしまう。

人の幸せそうなのは、見ていて嬉しい。

しかし、今はそうも言っていられない。

祥子さんの登場で、余計に心の重りが増える。

メールの文面をもう一度読み返して、シンプルすぎるか、短すぎるか、後ろめたさを償うべくハートマークでも選択してみようかと10秒悩んで、結局文字だけのメールを送信した。

しばらく会っていない彼女のことは後で考えることとして、思い出した喉の違和感を癒すべくドリンクバーに戻る。

他の知らない人たちに紛れて、俺も休憩スペースの隅にしゃがみこんで一息つく。

しっかりと冷えたウーロン茶が、急激に使われて疲弊した喉を通って行くのを感じる。

ひんやりと冷たさを伝えるコップを眺めながら、空けたら戻ろうとくるりくるりと氷が動くように振る。

外側からも喉を冷やすようにコップを首に当て、心地よさに目を閉じると、部屋のドアが開閉されるたびに漏れ出てくる音が大きくなることがわかる。

音が大きく聞こえる度に人の出入りがあるのだろう。

「広瀬さん?」

「ああ、ちょっと待ち伏せしてみたんだ。少しいいかな」

無防備の耳に届いた声は、俺の目蓋を開けさせるには充分な驚きがあった。

目の前に広がる状況は変わらず、休憩している人数に変化もなかった。

声の主は、先ほどトイレに行ってしまった祥子さんと広瀬さん。

もたれている壁のすぐ裏がトイレだったかも、と腰を上げかけたら会話が進んでしまう。

「広瀬さんに改まってそういわれると緊張します。何かありました?」

「この後、抜け出さない?」

盗み聞きしているわけでは、断じてない。

急いで部屋へ戻ろうと思ったが、考えたらトイレの前を通らないとみんなの元に戻れない。折角いい雰囲気なんだから、これを邪魔してもいけないだろう。

迷った上で、息を殺してその場にとどまることにした。
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