アロマティック
「もちろん、自分の不注意で階段から落ちたっていった。余計な心配させたくなかったから」

 話しをしているみのり以外の皆は、身動きすることなく息を殺して彼女の話しを聞いていた。みのりは話しながら、先ほど凌が出ていったドアヘと近づく。

「一緒に暮らしてたから。寂しい、早く帰ってきて欲しいっていわれたときは、わたしも同じ気持ちだったから、早く戻ろうって……」

 思えば、その決断が過ちだった。

「まだ退院許可が出てなかったわたしは、ある日、病院を抜け出した。松葉杖に頼りながら、なんとか凌の待つ家に戻ったの。驚かせたくて、帰るのを秘密にして」

 合鍵を使って、ドアを開けたその向こうには―――。

「部屋に入って、わたし……」

 思いが過去へ戻る。
 どんな表情で凌が迎えてくれるのか、楽しみで浮かんだ笑顔が固まる。
 手のひらから落ちた鍵が、硬い床にカタンとぶつかる音。

 その光景を思い出したくなくて、体が悲鳴をあげる。

「わたし……」

 言葉が続かない。
 ドアの前に立ち、ぼんやりと靴の先を見つめていたみのりが、苦痛を感じたように目を閉じる。

 レースのカーテンから射し込む、白い光。
 ベッドの上で重なる2つの影。
 部屋に満ちる、汗と、交わる男女が放つ独特な匂い。
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