砂糖漬け紳士の食べ方
数分後、伊達はお盆を持って戻る。
「リビングの電気、つけなかったのかい?」
その声に、窓から夜景を眺めていた彼女が振りかえった。
「月が明るかったので…。点けましょうか」
「いや、いいよ。たまには」
マグカップを二つ。伊達がテーブルへ乗せる様子を見ていたアキが、ふと気付いた。
マグのほかに、何やら丸い箱がある。表面に花の絵がデザインされていて、掌に収まるサイズだ。
「それ、何ですか」
「スミレの砂糖漬け。言ったろう?次のお菓子は私が用意するって」
かくして、真夜中の奇妙なお茶会はこうして始まった。
伊達が淹れたミルクティーはやはり甘かったが、ミルクの甘さが舌の上で柔らかく解けた。緊張がほぐれていく上品な甘さだ。
アキが一口二口それを飲んでいると、ふと彼が立ち上がった。
手には灰色の灰皿。口にはタバコ。
ベランダへ行くらしい。
彼がタバコへ火をつけた頃合いに、ベランダの掃き出し窓が再び開いた。
振りかえる。アキだ。
「…ここは寒いよ?」
紫煙をくゆらせながら彼は言った。
自分だって薄着のくせに。
「大丈夫です、ちょっとくらい」
アキの答えに、伊達は「そう」とだけあっけなく言い、再びベランダの手すりへ身を預けた。
月明かりが二人を照らす。
小さな赤い火が彼の呼吸に合わせてゆっくり強さを変えるのを、彼女は横目で見ていた。
ふう、と柔らかな煙が薄い唇から吐きだすのと同時に、伊達は隣のアキへポツリ言う。
「昨日みたいな日は大変だろう。…やりたくもない接待をして」
アキは、毒を含む彼の言葉をまるきり無視した。
代わりに外を見下ろす。まるで宝石箱をひっくりかえしたような景色だ。
「…楽な仕事なんて、無いですから」彼女は自分に言い聞かせるように呟き返す。
バニラの香りが鼻を刺激した。
「まあ、確かにね。
自分の好きなことを仕事にしている人間以外、仕事なんて生活の為にするようなもんだ」
伊達がふいに言う。
「どうしてその仕事を選んだの?」と。
大分ぶっきらぼうな問いだったが、アキは二、三秒の沈黙を挟み、言った。
「たまたま就職活動で受かったのがここだったんです」
「ふうん」
「本当は、司書さんになるのが夢だったんですけど。妥協しちゃいました」
彼女の薄い笑みは、微かに自嘲的な色合いも含んでいた。
「そういうのもあったから、最初は『こんな仕事辞めてやる』って毎日思っていましたけど」
「…うん」
「最近、考えが変わりました。
私が書いた記事を知り合いのおばあちゃんが読んでくれて、それからその画家のファンになってくれたんです」
伊達の視線は、変わらずにアキに向いたまま。
なのに、何故だろう。とても穏やかな気持ちだ。
独り、静かな湖畔に向き合ったらきっとこんな気持ちなのかもしれない。アキは思った。
「…世の中で、やりたい仕事が出来る人は決して多くない。
それと同じく、他人から憧れを向けられる職業も、そう多くない。
じゃあ、それ以外の『人の替えがきく仕事』は、無くていいものなのか。
それは違います。
…いろんな仕事があるから、この社会が回っている」
アキの吐露に、彼は口を挟まなかった。
白い煙はゆらゆらとベランダを包み、広がり、そして真っ青な夜空に混じっていく。
夜景の遥か下から、車のクラクションが遠く聞こえた。
「世界は『誰か』の仕事で成り立っている。けれど私には、特別誰かに誇れる才能もない。
でも、そんな自分でも、誰か会ったこともない人の生活で、ほんの少しの彩りになれるなら
それだけでも素晴らしいことなんだと…最近はそう思えます」
全てを聞き終えた後「理想論だね」と、伊達がぼやく。
しかしそれだけの言葉なのに、どこか悲しさを含んだ言葉のようにアキには聞こえた。
「そうですね、理想論です…まあ、でもそう考えないと、…」
語尾はか細く、冷たい空気に混じって、消えていた。
ふう、と煙を吐き出す伊達は、それ以上アキの言葉を奪おうとはしなかった。
「中に入ろう」
タバコをもみ消しつつ、それだけを言って。