砂糖漬け紳士の食べ方
アキが化粧室から戻るのと同時に、伊達は席を立った。
「じゃ、帰ろうか」
支払いを気にしたが、ウエイターはにこやかに店を出る伊達達を見送った。
おそらく彼女が化粧室へ席を外している間に支払いは済ませたのだろう。
実にスマートだ。
きっと、今までにも似たような機会があっただろうことは、アキにだって簡単に予測できた。
何せ14も年上なのだから、あったっておかしいことはない。
今までに彼女だっていただろうし、…その時に、こんなレストランでクリスマスを過ごしたことも、あるのだろう。
店の外は、墨を流したように真っ暗だった。
おまけに空っ風が足に流れ込んできてひどく寒い。
バッグに大切にしまったシャンパンチェアは、いい記念だった。
伊達の取材が終わっても、これさえ見れば、今夜の楽しかった思い出を何回も反芻できるだろう。
…取材が終わっても、これにさえすがれば、伊達のことはいつか諦められそうにも思えた。
「美味しかったかい」
伊達がコートに首をすぼめながら言った。
彼女は顔をあげる。ふいに下へ堕ちていきそうだった暗い思想を振り払った。
「はい、すっごく美味しかったです。ありがとうございました」
駅まで送っていくから、と彼は言った。
「…ありがとうございます、じゃあお言葉に甘えます」
───どうでもいい人間にも表面上愛想良くしておけば、自分の良いように使えるだろう
伊達からの親切は、先ほどの言葉を思い出すだけで全て灰色に塗り潰された。
少なくとも自分は編集者であるから、対応すら良くしておけば、その人情で悪いようには記事にしないだろう。
伊達はそう思っているのかもしれない。
だとしたら、貧血で倒れた時も、接待の夜の時も、全て、全部がそのためなのだろうか。
夜の駅前は昼間と同じくやはり賑わっていて、人の波は一向に引く気配を見せていない。
横断歩道の信号が青に変わった途端、大量の人が行き交い始める。
酒に強い彼はやはりほとんど酔っていないらしく、編み目をすり抜けるようにスイスイと先に進む。
「あ」
声と同時に、足がヒヤリと外気に冷える感覚を覚えた。
慣れないハイヒールのせいで、簡単に足から脱げてしまったのだ。
ちょっと待って下さい、と彼の背中へ声をかける前に、横断歩道の白線と、こちらへ向かってくる人によろめいた。
それに気づいた伊達が振り返る。人波の中、スラリとした彼が着る灰色のチェスターコートは目立った。
信号が、点滅を始めた。
アキは慌てて靴を履き直すが、何せ人の多さにままならない。
伊達が渡りかけた横断歩道を戻ってきてくれた。
「…ごめん、ちょっと歩くの速かったね」
「あ、いえ、すみません、私が悪いんです、こんな靴なんか履いてくるから…」
ツギハギだらけの言葉尻は、伊達に右手を取られたことで呆気なく奪われた。
「ほら、ちゃんと履いて」
掌に感じる熱い体温とすんなりした皮膚とどこか骨骨しい造りに、アキの思考はあっという間に溢れ出した。
ハイヒールを履き直す間
アキが伊達の手を恐る恐る握り返しても、彼は手を離さず
それどころか、一層強く握り直した。
…男の人の、手。
頭も、目も、手も、足もふわふわと彼女を包む。まるで雲の上を歩くみたいに。
「…あ、りがとう、ございました」
アキの言葉に、伊達は今までになく屈託ない笑みで返した。
ただそれだけ。
それだけで、彼女の思考は簡単に止まった。
いつも強固に保たれている理性と体裁は、今夜ばかりアルコールとその環境で緩くなっていたのだ。
もう駅なんか消えてなくなればいい。
…電車も、朝まで止まってしまえばいい。
彼女は、本気でそう思った。