砂糖漬け紳士の食べ方
一部が損傷したキャンバス面を見ても、伊達は激昂せず、ただリビングの時計とキャンバスとを見比べ、そしてぽつりと言った。
「…間に合わないな」
諦めにも聞こえたそのセリフは、頭を下げたままだったアキの胸を容赦なくえぐった。
感情を込めないような彼の普段の口調が、この時ばかりは非情に聞こえる。
編集長も同じく頭を下げたまま…しかしずっと唇を噛み締めていた。
伊達はキャンバスを手に取り、裏に表に目をやりながら冷静に言う。
「まあ、このくらいの傷だったら…裏打ちして油絵具を上塗りすれば充分直せますが…何せ時間が足りない」
傷がついたキャンバスを本人に見せているこの場で、「事故が」とか「業者が」とか、自分達に都合の良い言い訳をする精神的な余地はまるでなかった。
ただ、どうしようもなく、この絵を描いた彼に謝罪することくらいしかアキの頭には浮かばなかった。
「大変申し訳ありませんでした」編集長が声を濁し、更に深く頭を下げた。
「せっかく伊達先生に作品を制作して頂いたにも関わらず、わたくしどもの管理不徹底でこのような事態になってしまい…」
謝罪の声がリビングの床へ落ちていく。
重苦しい沈黙がアキの心臓を握りつぶしていく。
しかしそれらに対して、伊達の軽いため息がリビングへぽっかりと浮かんだ。
「頭を上げて下さい、山本さん。それにアキさんも…。
ところで、事故に遭った運転手は大丈夫だったんですか」
伊達の問いに、編集長が苦い顔つきのまま頭をあげた。
「ええ、荷台部分に追突されたので…。しかし横からの追突だったので、鞭打ちにはなっているそうですが」
「そうですか、ならいいです」と伊達はやすやすと会話を切った。
いつもと変わらない、飄々とした口調のまま。
しかし果たしてこれが彼の本心なのか、それとも「大人だから体面を取り繕っている」のかは分からない。
伊達は、キャンバスをぞんざいに自分の横へ置き、ゆっくりと口を開いた。
「……強いて言うなら、絵を最後まで自分の管理下におかなかった私の責任です」
これは伊達なりの「編集部への気遣い」なのだと、アキにも分かった。
いつもよりずいぶんとゆっくりした会話のスピードは、緊迫したこの場で何をどう言うべきなのか、慎重に言葉を選んでいるようにも思えた。
しかしそれでも伊達の言葉は、彼女の心へ次々と重くのしかかってくる。
アキの目線は、ずっと伊達のひざ元に落ちたままだった。
「展覧会は棄権ということで、先方に連絡とって下さい」
編集長は、そう告げた伊達に何も言わなかった。代わりに軽く会釈する。
「まあ、もし自分で搬入していたらと言っても、それこそ同じように事故に遭っていたかもしれない。
更に言うなら、締め切りギリギリに作品をあげた事だって、原因の一つだ」
「ですがそれはわたくしどもが伊達先生に絵の制作をお願いしたからで…」
「依頼を受けた以上、期間内に仕上げるのは私の責任です」
なのでもう謝罪はよして下さい。伊達はあっけらかんとそう続けた。
「取材は最後まできちんと受けます。ご心配なさらないで下さい」
編集長は少しばかりホッとしたようなため息をつく。
それでもいまだに彼女は、目の前にいる伊達を見られない。
…激昂してくれた方が良かった。
怒鳴り散らして「宅配サービスを勧めたお前のせいだ」と理不尽に罵ってくれた方が、ずっと良かった。
それならただひたすらに謝罪して、悲劇のヒロインになって、彼に抱いていた恋の芽もあっさり踏み潰せたのに。
「…また後日、伺わせてください」
編集長は、コートを持って立ち上がった。
「お気になさらず。展覧会の一つや二つ、今更大して気にはしませんから」
編集長に続き、アキもやはり立ち上がった。
しかしリビングから出ようとした彼女を、伊達の言葉が無情にも引きとめる。
「ああ、山本さんすみません…彼女と二人で話をしたいので、ここに残してもらっていいですかね」と。