砂糖漬け紳士の食べ方
微かな雨の音が、重い沈黙の隙間を埋めてゆく。
座って、と伊達に言われるまで、アキはリビングの出入り口に突っ立ったままだった。
重苦しい罪悪感がいつまでも彼女のカカトを踏む。
リビングの空気はまるで重りのように彼女の細い肩にのしかかってきていた。
しかしアキは自分を奮い立たせ、伊達が口を開く前に、再び大きく頭を下げる。
「大変申し訳ありませんでした…!」
言葉は、これしか出なかった。
針一本落とせば弾けてしまいそうな沈黙が再び訪れる。
頭をいつまでもあげないアキに、伊達は再び頭上から「座りなさい」と柔らかく言葉を被せた。
「…君を責めようと思って、ここに残した訳ではないよ」
彼の声が、いくらいつもと同じ穏やかな色だとしても
アキはそれでも目の前の画家の顔を見ることはできなかった。
彼へ申し訳ないという気持ちももちろんあったのだが
それよりも、伊達が何時間も何日もかけて描いた絵を、公に称賛される場を奪ってしまったという罪悪だけが首を絞めていた。
そうだ。あの絵は、もっともっとたくさんの人の目に触れて、称賛されるべき素晴らしいものだったのに。
それなのに…───。
のろのろとソファへ腰を下ろしたアキは、座るなり固く両手こぶしを作った。
どこか自分の体に痛みでも与えていなければ、この場から逃げ出したい衝動のまま飛び出しそうだった。
しかしそれでも彼は、気まずくて目も合わせられないまま座っている彼女に、向かい合う。
優しいまま。穏やかな空気のままで。
「……顔をあげなさい」
ゆったりとした口調が、彼女の耳を撫でた。
「どうせ君のことだから、自分の責任だと勝手に背負いこんでいるだろうと思った」
だからここに残ってもらったんだ、と彼は続ける。
「もともと展覧会への公募だけを目的に描いた絵じゃない。
依頼主は君だ。言ったろう?絵をどうするかは君の好きなようにしろって。公募は、ただのオマケだ」
「……はい…」
「だから気にすることはないし、もし私を心配しているならそれはお門違いだ」
確かに彼が自分で言うように、先ほどから感情の揺らぎは全く感じられなかった。
けれど、それでもアキは苦い想いを口の中いっぱいに溜めこむ。
「でも、せっかく伊達さんが描いた絵が…」
「君は人の話を聞いていなかったのか?
絵は修復出来る。ただ、今すぐに出来る訳じゃないというだけだ」
アキは再び口を噤んだ。
ごくりと唾を飲み込めば、こみ上げた胃液なのか、苦い味が口中に広がる。
「私の気持ちを察してくれるのは、ありがたい。だが君に心配されるほど、私は気に病んじゃいないってことだよ」
…怒鳴ってくれた方が、良かった。
アキは、伊達の足元をじっと見つめたまま、そう思った。
めちゃくちゃに怒鳴ってくれれば良かったのに。
そっちの方が、ずっとずっと良かった。
「話はそれだけ。さあ、もう戻るといい。山本さんも心配しているだろうから」
「…はい」
ソファから立つ際にもう一度頭を下げ、アキはリビングのドアに手をかける。
伊達も同じく立ち上がり、彼女の背をそっとリビングの出入り口まで押した。
添えられた彼の掌は、大きかった。
…何でこの人は、こんな時にまで優しいんだろう。
めちゃくちゃに怒鳴ってくれれば良かったのに。
そっちの方が、ずっとずっと良かった。
言葉にならない感情が、溢れた。
後悔と懺悔と、こんな時にまで伊達から気遣いを貰う自分の不甲斐なさが、ぐちゃぐちゃになる。
喉から嗚咽が沸き上がるが、唇を痛いほど噛み締めて、耐えた。
鼻が痛い。
今、瞬きひとつするだけで、それだけでこの涙ははらえる。
伊達の目の前。リビングのドアを閉める一瞬まで、アキは瞬きを我慢した。
「…それでは、失礼致します…本当に申し訳ありませんでした」
部屋の電灯が、細くなる。
ドアが閉まる。
リビングと冷えた廊下とが隔絶されようとした瞬間
いよいよ堪え切れなかった涙が、彼女のまつ毛からシタリと滴った。
しかしその一粒がフローリングに落ちて形を広げる前に
リビングドアが再び乱暴に開かれた。
驚いて、咄嗟に顔をあげる。
眉をしかめた伊達が、ドアの縁に手をかけていた。