砂糖漬け紳士の食べ方

この時になってようやくアキは、伊達と目を合わせた。

しかし自分が涙目だったのを思い出し、慌てて俯き直す。



「…顔をあげなさい」


しかし彼女は力なく首を振った。

先ほどのやりとりと全く同じだったが、今の伊達の口調には少しの苛立ちが混じっていた。


答える代わりに、アキは大きく鼻を啜る。


落ち着こうと息を吸えば、肺がぶるぶると震えて、それすらうまく出来ない。

迂闊に言葉を口にしたら容赦なく声がわななき、彼にばれてしまうだろう。

それだけは避けたかった。




「…このまま、帰らせてください…」



やっと絞り出した彼女の声は、ほとんど彼への懇願に近かった。

潜むような呼吸は、何度しても気持ちの静寂には繋がらない。



僅かな沈黙を挟んで、彼女は自分から顔をあげないだろうと分かったのだろう、伊達がゆっくりとしゃがみこむ。


俯くアキの顔を、覗き込むために。
小さい子にするそれのように。




「……こっちを見てごらん?」



彼女の濡れた視線は、恐る恐る、膝を折った伊達へと合わされた。

絡んだ視線に、穏やかに彼の口の端が笑う。




「そんな顔のまま、山本さんのところに帰るのかい」




意地悪に近いセリフは、けれどその優しい口調でひどく甘いものに変わっていた。



彼の冷たい人差し指が、そっとアキの潤んだ目尻へ触れた。

必死に守っていた理性が、プライドが、皮膚が甘く触れた一瞬に、崩れ落ちていく。



あんなに不明瞭でふわふわした、実態のなかったモノがはっきりと彼女の心の中へ形を現す。

目を拭おうにも体は強張って、結局大きく息を吸い込んだだけで終わって。


でも新しい空気を体にしみこませたのをきっかけに
唇がどうしても震えてしまうのを、彼女は自分で止められやしなかった。




アキが一番伝えたかった言葉は、「申し訳ありません」でも「すみません」でもなかった。




「…ごめんなさい…」



ただ、この一言だった。



ようやく唇に触れた本音は

ほろり

人魚の泡のように崩れ、そのまま強い雨足に消されてしまった。



それが口を濡らすのと同時

アキはとうとう、大きな一粒をこぼす。



一瞬で彼女の視界は深海へ沈む。深く、深く。





「…ごめんなさい、伊達さんごめんなさい…っ」



何度も何度も瞬きをしても、視界は水の中に沈んだままで

けれど目の前の彼は笑顔をたたえていた。



「…どうして謝るの?」


彼女の目尻から、ただただ涙が流れ落ちていく。

でもそれは悲しいから泣くんじゃなくて
どこかから溢れた分が流れ落ちているような、そんな涙だった。



「…っ本当は、いろんな人に、伊達さんのあの絵を、見てもらいたかったのに、私のせいで…」


伊達は、揺れる彼女の涙が落ちていくさまを、ただ眺めていた。


そして瞬きを3回。

のち、ゆっくりと笑った。



「…私は今まで、自分が描きたいまま絵を描いていた。

君は『他人の人生の、ほんの少しの彩りになれるなら、それだけで素晴らしい』と言っていたが
…悪いけど私はそこまで立派な人間じゃない。
会ったこともない人間に、優しくしてやろうなんて少しも思えない」



伊達の視線が、ソファ横へ置いたままの絵に留まる。



「でも、自分の絵を好きだと言ってくれた子のためになら描こうと思えた。

私は君の為にあの絵を描いた。…だから別に、展覧会に出せなくても構いやしない」



何かを言いかけたアキの言葉は、くしゃりと潰れた。

そのまま強く伊達の腕の中へ引かれたからだ。



彼女の胸に、何かがぐっと迫る重苦しい痛みが迫る。



あの緩い服装だった彼からは想像も出来ないほど、汗の匂いがした。

柔軟剤の匂いがした。男の人の匂いがした。



アキの髪の毛に感じる伊達の呼吸は、細々しかった。

まるで誰かにこれを聞かれるのを恐れているかのように。



彼のすんなりした手が、彼女の髪を掻き分けて、更に頭を抱かれる。

涙目が伊達の肩口に押し付けられて、視界はトレーナーの色で真っ白に変わっていった。



耳に、彼の熱い息がふわりとかかった。

今までになく近く、伊達の声を聞く。低く、甘く、染みいるような優しい声。




「…ありがとう。泣かなくていい。…もう充分だよ」



どんな励ましの言葉より

どんな詩的な言葉より


彼の言葉は、ずっとずっと優しかった。




アキは涙声のまま、何度も力強く頷いた。
声は言葉になる前に、消え去っていく。



最後の涙が頬を伝い、彼の指がそれをそっとはらっていった。

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