砂糖漬け紳士の食べ方
広い広いエントランスには、大きな自動ドアの隙間から冬の匂いが僅かに染み込んできていて微かに底冷えがした。
受付に駆けつけると、灰色のチェスターコートを着た長身の男が受付台の横に立っていた。
伊達だ。
思わずいつもと同じように声をかけようとしたが、アキは咄嗟に口ごもった。
別れ際にかけられたあの意味深な言葉を、彼女は忘れてはいない。
果たしてここはいつもと同じように笑顔を向ければいいのか、それともどうすればいいのか……
唇は迷って、中途半端な形で固まる。
しかし彼女が答えを出すのを待たずに、伊達の目が女性の姿に気付いた。
「…やあ」
静かに声をかけられると、受付嬢数名の視線も同様にアキへ向けられる。
出版社の人間を呼び出したこの男は何者なのか、という怪訝な視線よりも
自分の容姿に見合わない粗末な格好をする男は一体どういう人間なのか、という好奇に満ちた視線だ。
彼は読んでいた文庫本をコートのポケットへしまい込んだ。
持っていた本は、英語なのかドイツ語なのかアキからは見えない。
この頃には、先程まで追われていた仕事の忙しさなどすっかり忘れて、今度は嫌な緊張感が彼女を襲い始めていた。
まさか、絵の関係で何かまたトラブルでも起きたのだろうか?
「どうしたんですか急に…お電話頂ければ、私の方から伺ったのに」
アキの問いは尤もだった。
よほどのことがなければ外出をしない、とあれだけハッキリと豪語していた人がわざわざ出版社へ訪ねてくるなんて。
伊達の力ない視線は、ふと彼女の目を見つめる。
しかしそれはまた的を外され…そして抑揚なく言った。
「10分ほど、いいかい?」と。
「ええ、はい。どこか喫茶店でも行きましょうか」
「いや。…あそこにソファがあるだろう、そこで」
そう言って伊達は、エントランス隅の赤いソファを指差した。
受付嬢の複数の視線はスラリと高身長の彼へ注がれっぱなしだ。
大人しく彼のあとにつき、そっとソファへ座り込む。
対する伊達はソファに腰をかけるなり、長い長いため息を吐いた。
心の中の何かを押さえているかのように、細く長く。
しかし口に出したのは、その不穏な緊張感には見合わない平和的なセリフだった。
「絵は、直せたよ」
「本当ですか?」アキは身を乗り出す。
「そう大きい傷ではなかったからね」
そうですか本当に良かったですずっと心配だったんです、と矢継ぎ早に口に出そうとして
しかしそのあとに続いた伊達のセリフに、彼女の言葉はあっさりと阻まれた。
「それで、絵の代金のことなんだけど」
このたった一言で、アキの慕情は一気に引き潮に変わる。
彼へかけようとしていた思いやりの言葉は潰れ、代わりに思い切り唇が引きつった。
すっかり忘れていた、なんてところじゃない。
一連のトラブルや、日昼夜問わず追われていた編集作業やらが、この約束を彼女の目からまるまる覆い隠していたのだ。
自分の先祖がしていた約束を今更になって突きつけられたに近い。
アキは「とりあえずしのぎに」とばかりに、慌てて笑顔を取り繕った。
いきなりの伊達の訪問でここへ来たわけで、小切手など持ってくるはずもない。
そもそも絵の代金の話すら、編集長に話していなかったのだ。
いつか聞いた贋作の値段は、彼女の年収に近かった。
今回はもちろん贋作ではない。
しかも取材のためにわざわざ描いてもらったものだ。
贋作と同じ値段…いやそれ以上かもしれない。
…怖くて、値段が聞けない。
忘れていた頃に思い切りビンタをぶたれるという比喩は、まさにこの場にふさわしかった。
「あー…伊達さん?編集部宛に請求書というのは…」
彼女の狼狽ぶりを楽しんでいるのか、伊達はゆっくりとわざとらしく首を横に振った。
簡単確実な拒否に、ヒクッと彼女の口端が引きつる。
しかし次に口に出された言葉は、アキの予想だにしないものだった。
「絵の代金だけど…いらないから」