もう一度、あなたと…
カチャカチャ…とリズミカルなキーの音を聞きながら、私は悶々とした気持ちを抱え込んでいた。

「…何⁉︎ 」

不思議そうに舞が振り向く。

「あ…ううん、何でもない。ごめん…」

睨みつけるように見ていた自分を反省させられた。
さっきから私はデスクに座ってるものの、ちっとも仕事が捗ってなかった。
さくさく…と仕事を進めていく舞が羨ましくて、じっとそっちばかりを見入ってた。


出社すると、ひかるの姿はどこにもなかった。
同じ部署の人に話を聞いても、今朝はまだ見かけていないと言うことだった。

(どこ行ったんだろ…)

今朝の様子が気になって、仕事どころじゃなかった。
ぼんやりしたまま手の止まってる私に、不機嫌な声でお呼びがかかった。

「…ちょっと!君!宝田くん!」

振り返ると、「セクハラ部長」の汚名を背負ってる「杉野太一」が、怒ったような顔つきでこっちを見てた…。

「何でしょう…」

必要以上に近付かず答えた。
32才の記憶を忘れられないでいる原因は、この人にもある。
顔は太一そっくりで、口は聞きたくもない言葉を出す。
手の感触が同じで、握られた感覚がいつまでも消えてくれない。
不機嫌そうな喋り方まで似てる。まるで、太一が側にいるみたい……


「…なんだい⁉︎ 元気ないね⁉︎ 」

悟られた。
この部長は勘が良くて、そういう所だけが太一と違う。

「…ダンナが出張に出るからつまらないんだろう⁉︎ 一週間も帰ってこないとなると、寂しいよな、特に夜が…」
「えっ……」

セクハラ発言に戸惑った訳じゃない。
『出張』…という言葉に耳を疑ったからだ。

(出張⁉︎ 一週間も⁉︎ …そんなの…一言も聞いてないし…!)

確かに、今日から帰りが少し遅くなると、出かける前に言ってた。
夕飯も食べて帰るからいらないと言ってたし、先に寝てていいとも言った。

(でも…それってよく考えたら、どこかに泊まるから、待っとく必要ないって意味なの……)

今更のように気づいた。
朝から態度が変だったのは、出張の話をしづらかったからだ。

(このキスマークも、出張中、誰からも手を出されない様にする為…⁉︎ )

一緒にお風呂に入るのを断ったからじゃない。
32才のエリカの相手に、嫉妬したからでもない。単に…

「…そういう事…」

ホッ…と呟いた言葉を、杉野部長は聞き逃さなかった。

「な⁉︎ 寂しいだろ⁉︎ …なんなら俺が相手しようか⁉︎ 」


ビクッとして固まった。立ち上がった部長が寄ってくる。慌てて後ずさる。
ひかるがいないのをいいことに、またしても手が伸びそうになった。

「やっ…!」

退けながら叫んだ。


…もう二度と、その手で触れて欲しくない。
私のことを顧みもしなかった、太一と同じ手に…触られたくない……!


「…やめて下さい!!ホントに訴えますよ!!」

大きな声に驚いた。
視線を向けてよく見る。
出張へ行く筈の人が、ドアの前に立ってる。

(えっ⁉︎…どうして…?)

驚いて言葉を失くす。
私だけじゃない。杉野部長も…。
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