強引社長の甘い罠
 そう言った祥吾は、間近で私を見ても表情を変えなかった。彼はやはり私を覚えていないのだ。あの時、会議室でもそうだったように、彼の中で私は、過去の女どころか、覚えている価値もない存在だったのだ。
 どうしたのだろう。私を覚えていないと分かったとき、ショックだったけれど、それをこうして間近で思い知らされると絶望感すら感じてしまう。

 私には優しい聡がいるというのに、頭の中は祥吾のことでいっぱいだ。彼が私を覚えていないことが、こんなにも苦しいことだったなんて。今までずっと忘れることができずにいたけれど、そんなことはほんの些細な苦しみだったと気づかされた。

 聡と佐伯さん、そして祥吾が何か話している。私は曖昧な笑顔を見せ、相槌を打ったが、彼らの会話はまったく頭に入っていなかった。


「唯、どうしたの?」

 映画を観終えた私と聡は、駅近くのカフェにいた。窓際の二人掛けの席に向かい合って座り、通りを歩く人波をぼんやりと見つめる。

 観たかったはずの映画は、ほとんど上の空になった。口を閉ざして黙ったまま、話しかけられても堅い笑顔しか返すことができない私は、明らかに様子がおかしかったと思う。分かってはいるけど、どうする事もできなかった。

 祥吾に寄り添う佐伯さんの姿が脳裏に焼き付いている。
 もうあれから八年も経つのだ。私に聡がいるように、祥吾に佐伯さんがいたって、おかしいことはない。むしろ自然なことだといえる。

 それなのに、その事実をうまく処理することができないのだ。楽しみにしていた映画を無駄にして、聡に気遣われるくらい、動揺してしまっている。
 私は口の中に広がった微かな鉄の味に、自分でも気づかぬうちに唇を強く噛んでいたことを知った。

「……唯、やっぱり今日は変だよ。どうしたの? 何かあった?」

「聡……」

 聡がそっとハンカチを差し出す。私は弱々しく首を振った。
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