強引社長の甘い罠
 食い下がる幸子さんに、佐伯氏は渋い顔を見せた。やはり可愛い一人娘を手元に置いておきたいという親心なのだろう。例え嫁がせるとしても近くに住んでいるのであれば安心できるというところだろうか。
 しかし、そもそも俺自身に結婚するつもりなどないのだから、こんな議論は全く意味がない。それを何とかしてこの親子に早いところ理解してもらわなければ。

「幸子さんは一人娘ですし、いずれ婿養子をもらうか、そうではなくても日本で暮らす男性と一緒になることが最善でしょう」

 俺の言葉に、幸子さんがあからさまに不満な顔をしてみせた。俺が彼女との結婚を考えていないことを告げたようなものだからだろう。けれど仕方がない。俺にはその期待にこたえることはできないのだから。

 そしてこんなとき、いつも俺が考えてしまうのは唯のこと……。彼女の心がどんな理由で、どれくらいの割合でかは分からないが、俺に向いているのは事実だ。そして戸惑っている。井上にプロポーズされながら彼女はまだ返事が出来ていないようだし、どうやら他にも親しい男がいるようだ。そしてその相手との間には何か見えない絆がある。あの男とは一体どういう付き合いなのか。

 唯は、もう俺の知っているあの頃とは違ってしまったのだろうか。彼女は器用な方じゃない。料理も下手だし、掃除も洗濯も苦手だった。だけど一途で一生懸命だった。苦手な料理も一生懸命練習してから、俺に作ってくれたりもした。俺との付き合いも、同じように大切にしてくれていた。俺はそんな唯が愛しかった。手放せないと思っていた。大切にしたいと思っていた。

 唯は、同時にいろんな男と交際できるような女性ではない。だが、そう信じるにはあまりに月日が経ち過ぎてしまったのだろうか。
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