二人の『彼』
「恭」
前方を見据えながら、齊藤さんは俺を呼ぶ。
片目ゆえ、視界も常人の半分しかないだろうに、四方八方の敵を把握して全て蹴散らしてしまうのだから、本当に素晴らしいほど厄介な観察眼をお持ちである。
敵に回したらと思うと、末恐ろしい。
「お前は、どう思う」
「え?」
玉虫色の曖昧な質問だ。
まず、何についてなのかもわからない。
そうでなくとも、5W1Hの質問は日本人は苦手だ。
典型的な日本人である俺は、返答に詰まる──時代が違えば、その典型も変わるのかもしれないが。
齊藤さんの言うどう、は、いったい何を指しているのだろう。
「例えば」
言葉に詰まる俺を見かねたのか、齊藤さんはヒントを提示してくれる。
「お前は、"これ"は、ある方がいいと思うか」
齊藤さんは、鞘に収まったままの剣を掴んで示した。
刀が、ある方がいいか、ない方がいいか。
きっとそれが、質問の意だろう。
「刀……」
それがない世界を知っている俺は、ない方が平和だということもまた知っている。
争いは一筋縄ではいかない。
正義と悪なら話は早いが、争いが起こるのは、双方がそれぞれに正義を掲げているからだ。
この時代の人たちは、そんな争いを迅速かつ単純明快に結論づける手段として、"それ"を使う。
"正しい"方が"勝つ"のではなく、"勝った"方が"正しかった"のだ。
言語道断に一刀両断する。
それがこの世界の、正義の統一の仕方。
しかしその正義の統一の仕方が、正義だとは限らない。
むしろ現代であれば、それは警察や裁判沙汰になるような悪だ。
双方同意ならまだしも、使った方が負けである。
「俺は──」
"それ"がある世界もない世界も経験してきた俺には、一概にどちらが良いとは言えなかった。
暴力が悪だという固定概念は完全に覆されている。
でないとやっていけない世界である──この時代は。
「あってもいいんじゃないすか。受け入れられているなら」
そうとしか言いようがなかった。
善悪では割りきれない。
あの時代では、ないことが当たり前で。
この時代では、あることが当たり前だっただけの話。
齊藤さんは、後者なのだろう。
──ん。
何か引っ掛かる。
「……そうか」
ややあって、斎藤さんは言う。
「俺もいい加減、慣れてしまったということだろうな」
「え?」
あることが当たり前ならば、疑問など抱かないはず。
慣れたというのは、慣れていなかった時期があったということ。
そしてまさか──冒頭の台詞の真意は。
「あんた、もしかして──俺と、いや俺達と同じように───」
その言葉に斎藤さんは、肯定も否定もせずにふっと微笑む。
ちょうど足を止めたその場所には、刀を携えた子供たちが、稽古に励んでいるのだった。