僕と、君と、鉄屑と。
 麗子の家は、駅から少し離れた古い、ワンルームのアパートだった。どうせ荒んだ生活をしているんだろうと思っていたが、中はすっかり片付いていて、数時間前の麗子のイメージとは、全く違っていた。
 ふむ。女性の部屋とは、こういうものなのか。当然、女性の部屋に入ったのも、初めてで、なんとなく部屋に漂う、甘い香りが、僕の鼻をついた。
 麗子は下着や部屋着や化粧品を紙袋に詰め込み、お待たせ、と言った。
「他の荷物は?」
「もういいの。この部屋、引き払うんでしょ? ついでに、全部処分してよ」
そう言って、麗子は、僕に部屋の鍵を渡した。先に外に出ようとする麗子に、ふと目に入った、手帳らしきものを見せた。
「これは? よろしいんですか?」
なぜ、それが目に入ったのか、気になったのか、わからない。麗子は、それをじっと見て、捨てて、と言った。そのまま、麗子は外に出て、鉄骨階段を降りる音が、カンカンと響いた。
 僕はその手帳らしきものを、丸めたティッシュとレシートが少しだけ入ったゴミ箱に入れようと思ったが、やはりなぜか、気になって、ブリーフケースに入れた。ああ、処分業者を手配せねば。僕は手帳を広げ、間取りと、もうすぐゴミになる荷物をチェックすることにした。そして、同時に、この部屋に入った瞬間に感じた違和感の原因を突き止めた。
 ない。この部屋には、テレビも、パソコンも、ラジオも、電話も、ない。そう、この部屋には、通信機器、と呼ばれるものが一切ない。あるのは、最低限の家具と、食器と、日用品。造り付けのクロゼットの中にも、下品な仕事用のスーツが数着あるだけで、ガラガラに空いている。
「早く来いよ! 寒いんだけど!」
外から麗子の声が聞こえた。確かに、寒い。玄関を出て、鍵を閉めて、僕も階段を降りた。吐く息が白く染まり、空にはオリオン座が光っている。季節が流れて、夏になる頃には、佐伯麗子は、野間麗子になる。ふむ。結婚か……社長も、結婚するのか……
「麗子さん、携帯をお渡しいただけますか」
「そんなもん、持ってないよ」
「新しいものを用意しますから、安心してください」
「だから、持ってないって」
驚くべきことに、麗子は本当に、携帯を持っていなかった。この時代に、そんな人間が生息したのか。
「では、明日、新しいものをお届けします」
「いらない」
「連絡ツールとして、必要ですので」
麗子はもう何も答えず、窓を少し開けて、タバコを吸い始めた。つい半日前まで、あんなに下品だった女は、今はもう、二十八歳の、普通の女性に……戻っていた。
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