元教え子は現上司
 好きだった。彼女のことがとても好きだった。
 だから裏切られたとき、こんなに苦しいことはないと思った。恋人に振られた、ただそれだけのことが自分の中のあらゆるものを、根こそぎ奪っていったような気がした。
 それなのに。

「君を守ろうとしていたんだよ、彼女は」

 あの日資料室で、袴木に言われた言葉。殴られたような衝撃の後、気がつけば泣いていた。
悲しい、苦しい、そしてなにより悔しかった。自分が子供で生徒だから、好きな女を守ることもできないんだと、そのことを思い知った。

「どうして俺はまだ高校生なんだろう。どうして先生は先生なんだろう」
 つぶやた子どもに、袴木は言った。

「悔しいと思うなら、一生懸命勉強しなさい。よく勉強して、早く偉くなるんだ」
 袴木が目線をあわせるように膝を折る。自分の父親よりも年上の教師が、かつての碧のように暁の顔を覗きこむ。

「よく学んで伸びていく奴は、人より早く大人になれる。いつかもう一度出会いたいなら、今を無駄にしてはいけない。久松先生の残していった、この場所を大切にしなさい」

 どんな授業より文法よりも、心に落ちてくる言葉だった。数学のように、問題を必ず解ける公式があるわけじゃない。それでも、袴木の解くその在り方はきっと、暁と碧をこれ以上引き離さない。

 いつか会える。守られるだけじゃない、彼女を守れるような男になって、もういちど会える。
 そのためにがんばろう。
 そう素直に思えた。
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