どうぞ、ここで恋に落ちて
まだどこか名残惜しそうな樋泉さんの手を自分からパッと放す。
ラフな部屋着を着た樋泉さんが出掛ける準備をするために寝室へ行き、その姿が見えなくなると、私は小さく息を吐いた。
今夜は来るのも遅かったし、もしかしたらここに泊まることになるかもなんて密かに思ってたけど……。
今日はもう、おとなしく自分のアパートに帰ろう。
私にも気持ちの整理が必要だし、こうなってしまった以上、樋泉さんにサイン会の件で不安になってることなんて言えないし。
私は私で、彼の力を借りずにがんばらなきゃ。
それに、あの様子では樋泉さんはすずか先生の好意には全く気付いていないみたいだし、それじゃあ尚更彼女のご機嫌を損ねる気がする。
樋泉さん、今夜帰って来れるのかな……?
そんなことを考えながらソファの横に置いてあった鞄を手にすると、白いシャツと黒のスラックスを着た樋泉さんが寝室からひょっこりと顔を出した。
彼の手には、細身のブロウフレームのお仕事用メガネとネクタイがある。
「え、帰るの?」
鞄を抱えた私を見て、樋泉さんが目を丸めた。
私がこくりと頷けば、メガネをかけ、ネクタイを締めながら慌てて寝室へ戻って行く。